第178回 「流出」で損なわれた国益はない

  「苦言熟考」では過去の数年間にわたって<日本語がおかしくなっている。劣化してきている><ちゃんとした日本語が使えなくなると、日本人はまともに、論理的に、思考することができなくなる>という意味のエッセイを何度も書いてきました。
  間違っていたようです。<できなくなる>ではなく<もうできなくなっている>と訴えるべきでした。
  「尖閣ヴィデオ」の流出をめぐる騒ぎが典型的な例だと言えます。
  日本語を正しく使えなくなった政治家たちと報道機関が、呆れてしまうほどの幼稚さと愚かさで、「衝突」と「流出」を論じています。
  この「尖閣衝突事件」の核心は、あくまでも、<どちらの船がどちらに当たったかではない>のです。<尖閣諸島を中国が中国領だと主張していること>なのです。
  ですから、「尖閣ヴィデオ」には、それをめぐって日本中が大騒ぎするほどの、格別に重大な価値はないのです。
  海上保安庁内の機密保持能力を責めるのは、まあ、いいとしましょう。ですが、「流出で重大な国家機密が漏れてしまった」ですって?「流出で失われた国家利益は計り知れない」ですって?
  政府と与党を悪く言うことに全精力を費やして自己満足している野党各党にも、賢いふりをすることを飯の種にしているらしい、勉強不足の報道機関にも、まともな頭脳の持ち主はもういないのでしょうね。
  「流出」のどこが「重大な国家機密」だったのでしょう?「失われた国家利益」とはいったい何だったのでしょう?
  「重大な国家機密」というのは、そもそも、それが外部に漏れてしまえば<日本が大きな危険にさらされてしまう>とか<相手国に一方的に有利な状況が生じる>とかいうようなものを指すはずでしょう?
  この「流出」で日本がどんな危険にさらされたというのです?中国がどんな有利な状況を楽しんでいるというのです?
  中国政府は、漁船の乗組員たちから事情を聴取していますから、このヴィデオに何が写っているか、現実に何が起こったのかを、とっくにちゃんと知っています。疑う余地はありません。
  「尖閣ヴィデオ」を中国政府が見たところで、日本の国家機密は何も失われてはいないのです。
  「待て、尖閣ヴィデオというのは、それを有効に使えば、日本が本来のものとして受けることができるはずだった、つまりは、対中国交渉を日本に有利に導くことができたはずの情報に満ちていたのだ」ですって?
  中国漁船の方から海上保安庁の巡視船にぶつかってきたことが明白だから?
  日本人の思考力が衰えてしまっているというのはそのことです。
  「対中国交渉を日本に有利導く」ことができると主張する者は、このヴィデオを見せれば中国政府を日本に詫びさせることができると信じているのでしょうが、その頭は幼稚すぎます。どんな内容のヴィデオを見せても中国政府が「うちの漁船(長)が悪かった」と詫びることはあり得ません。日本が強硬に詫びを求めれば中国政府は<中国漁船は、中国領海内に侵入していた日本の巡視船を追い出そうとしただけだ。船長らは英雄だ>と論じるしかなくなります。
  政府を責めまくる野党各党にも、平和ぼけして外交の現実が見えない報道機関にも、この核心がまったく見えていません。
  繰り返します。この「尖閣衝突事件」の核心は、あくまでも、<どちらの船がどちらに当たったかではない>のです。<尖閣諸島を中国が中国領だと主張している>ことなのです。
  「尖閣ヴィデオ」を早く一般公開していれば、国民の知る権利にも応じられたし、「流出」事件も起きていなかった?
  交渉の道具としてはまった役に立たないこんなヴィデオの中身を国民が知ってどうなると言うのです?いえ、国民に「知る権利」がないとは言いませんし、見ることで国民は好奇心が満たされるでしょう。「われに正義あり」との気分をしばらく楽しむことはできるでしょう。ですが、そんなことのために中国政府に「尖閣諸島(釣魚島)は中国領」論を大声で叫ばせることになってもいいのでしょうか?中国から、漁船だけではなく、軍の船までが群れをなして、尖閣諸島の近辺に出没するようになってもいいのでしょうか?次つぎと押し寄せて来る中国船を強制的に追い出す覚悟がいまの日本にありますか?何の準備も覚悟もないのにそんな事態に陥ることこそ日本の「国家利益」に反しています。
  <政府が責任をもって早く一般公開していれば「流出」事件は起きていなかった>という議論も、あまりにも子どもじみています。日本政府が得た情報を国の意思に反して国家公務員が公開すること自体は法令に違反しているでしょう。このヴィデオをインターネットに載せた海上保安庁の職員は罰せられても仕方がないのかもしれません。しかしながら、政治家も報道機関もこれまでのところそれには一切触れていませんが、この「流出」で日本が国家として得た利益は、実に大きなものです。このヴィデオを日本政府が公式に一般公開して、日本国民の正義感や感情を背景に中国政府に抗議する、という外交上の“愚策”が避けられたのですから。態度を硬化させた中国政府に強硬な反日政策を採らせずにすんだのですから。
  日中関係は、経済関係が相互に入り組んで、複雑なものになっています。こぶしを振り上げ、大声で相手を非難しあうのは幼稚な外交です。
  中国自身も、偏狭な愛国主義に酔って対日強硬策を求める幼稚な国民、日中間の緊張を利用してその存在意義を強調したい軍部などをなだめながら、この「尖閣衝突事件」を処理しなければならないのです。
  民主主義や人権擁護から遠くかけ離れた国、中国を相手とする外交は<正義のヴィデオを公開して謝らせる>というほど単純ではありません。
  「尖閣ヴィデオ」には、<世界中の第三国にどんな衝突があったかを知ってもらう>という以外の大きな価値はありません。そんなもののために国の予算審議が停滞遅延してはいけません。
  「尖閣ヴィデオ」の「流出」で日本が失った「国益」はほとんどありません。重大な「国家機密」が漏れてもいません。
  「流出」させた人物の意図がどこにあったのかはまだ報じられていませんが、皮肉なことに、この「流出」では<中国との対立激化を避けさせた>という、日本の「国家利益」を守る成果があがっていたのです。
  幼稚で、無駄で、無用な大騒ぎはもうやめて、日本国民の生活を良くするための議論を始めようではありませんか。