番外 「翻訳で遊ぼう」 おまけ編 =1=

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  「合理的な疑い」(文庫本)から
  
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  数日間休憩したら、また<やる気>が出てきました。以下は<おまけ>です。楽しんでいただけたら幸いに思います。


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  [MURDER] [MANSLAUGHTER]

  アメリカの小説やドラマに出てくる<殺人>事件に対する求刑・有罪評決には<murder>と<manslaughter>があります。また、それぞれに<ファースト・ディグリー>と<セカンド・ディグリー>があります。
  ふつう、<Murder>は「謀殺」、<manslaughter>は「故殺」と訳されますが、日本語で日常的に聞く言葉ではありませんね。
  <murder>は「(殺意ある)殺人」、<manslaughter>は「傷害致死」でいいと思うのですが…。

  <manslaughter>を「リーダーズ英和辞典」(研究社)は「(特に)殺意なき殺人(一時の激情によるなど)」と説明しています。ですから<murder>はやはり<殺意ある殺人>ということになります。

  <first degree>と<second degree>との違いは、殺人または傷害の計画・準備がどれぐらい周到だったか、手口がどれぐらい残虐だったかなどで分けられるようです。

  上の二つのほかに「過失致死」という罪もありますね。それは
<criminally negligent homicide>と呼ぶようです。

  訳本の下巻339ペイジでは<lesser included offences>という考え方をミラーたちが被告人ジェニファーに説明しています。
  それによると、検察側の容疑がたとえば<第一級殺意ある殺人>となっていても、それだけの証拠がないと判断すれば、陪審は、それより罪が軽い容疑に切り替えてその罪の有無を審議し、評決することができます。<第一級殺意ある殺人>容疑については無罪だが<第二級傷害致死>容疑では有罪だ、という具合に。


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  「食物はまとまっていた」(下 P.64)

  弁護士ミラーとライアンはピクニックに来ています。ミラーが長く何もしゃべらなかったのでライアンが言います。<君が何もしゃべらずにこんなに長く過ごせるとは知らなかったな>。ミラーが応えます。<わたしって、驚きのかたまりなんですよ>。そのあとに次の説明が入ります。

  <The meal was one. Chicken coated with sharp spices,
collard greens, tomatoes and okra, garlic bread.> 

  考えられる訳は<(ミラーが持ってきていた)食べ物もその驚きの一つだった>(略)でしょう。

  どういう読み方をすれば<The meal was one.>が「食事はまとまっていた」になるのか分かりません。このあとすぐにライアンが「自分で料理したんじゃないだろうね?」と驚きの質問をしていることからも、簡単に察することができるはずです。


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  「まったくひどいざまったら、ありゃしない」(P.77)

  大きな精神的な負担から逃れるために前夜深酒をしたことがたたって、ライアンは公判初日の朝、ほとんど正体不明なほどの二日酔いに陥っていて、出廷不能になっています。その理由・原因を突きとめようと報道陣が彼のアパートの下に集まっています。
  そこでミラーが言います。「マスコミがわたしを取り巻き、今も下にいっぱいいます。まったくひどいざまったら、ありゃしない」

  英語では<A fine fucking mess.>です。

  いわゆる卑語を含んだ俗語の訳は難しいと思います。ですが、ここは、そのあとライアンが<ミラーがそんな強い言葉を使う女性だとは思っていなかった…>と感じていますので、もう少し工夫したいところですね。

  「ばっかみたいに騒いじゃって」「ばーかみたいな大騒ぎ」「反吐みたいに大混乱」「ド混乱」―。
  どういうのが一番ふさわしいのでしょうか?


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  「(略)肱を曲げる運動なんぞより、緊張をほぐし…(略)」(p.78)

  上のつづきの場面です。ミラーが友人の医師を呼んで、ライアンが出廷不能であることを証明する、裁判官コリノに提出するための診断書を書いてもらっています。義務的に診察をすませたその医師がライアンに、彼が昔やっていた水泳を「もっとやって下さい」と勧めたあと、(水泳は)「肱を曲げる運動なんぞより、緊張をほぐし…(略)」と説明します。

  「肱を曲げる運動」というのは英語の<bending your elbow>どおりの訳ですから、まったく正しいのですが、これは<腕立て伏せ>のことでしょうかね?


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  「その言葉を口にしたのはあなたよ―わたしじゃない」(P.79)

  さらにつづきです。この医師が去ったあと、その医師についてライアンが「魅力のある男だね<試訳:かわいらしい男性じゃないか>」と茶化します。「文句言わないで、ライアン。必要な時にちゃんと来てくれたわ<試訳:不平はなしにしてください、ライアン先生。わたしたちが必要なときに、あの人、ちゃんといてくれたんですから>」とミラーが言ったのに対し、ライアンが言います。「わたしはすっぽかした<試訳:で、僕はというと、(二日酔いのせいで、けさの法廷には)いなかった>」
  その言葉にミラーが<You said it ― I didn’t.>と反応します。それが「その言葉を口にしたのはあなたよ―わたしじゃない」です。

  直訳ふうでいいのなら、そういうことでしょうが、たとえば「分かっていらっしゃるんですね、先生、わたしが言わなくても」というのはどうですか?


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  (略)朝食とコーヒーをとる間とオフィスへ向かう車中ずっと、冒頭陳述のメモを読んでいた。(P.79)

  英語は
<He studied his notes for the opening over a light
breakfast and coffee in the car that took them to the
office.>
  となっています。
  <オフィスへ向かう車中で軽い朝食をとりコーヒーを飲みながら、彼は冒頭陳述用に作っておいたメモを入念に読んだ>というところでしょうか。
  「朝食とコーヒー」は「車中」でとったのです。


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  法医学を専門とする(略)医学博士(P.83)

  英語は
  <a medical doctor trained in the specialty of forensic
pathology>
  です。
  <forensic>というのはここでは<法廷の、法廷で用いる>という意味です(「リーダーズ英和辞典」研究社)。
  <pathology>はふつう<病理学>と訳されます。
  すると<forensic pathology>は<法廷病理学>となるべきでしょうか?何であれ、ただの「法医学」では手抜きだと思えますね。

  <pathologist>という単語もこの小説の中に出てきます。どの辞書でも<病理学者>という訳になっています。この<病理学者>が何をするかというと、簡単にいうと、医学の見地から死因を究明するのです。
  小説を読んでいてこの単語に出合うたびに、これは、ただの<病理学者>ではなく<死因究明学者><死因究明医>とでもした方がうんと分かりやすいのに、と感じます。

  すると<forensic pathology>は?<法廷(用)死因究明学>あたりが一番ではないでしょうか?

  <murder>=<謀殺>、<manslaughter>=<故殺>が分かりにくいように、この<forensic pathology>も<法廷病理学>では的が絞りきれていないという気がします。


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  「どうやるんだ?」(P.102)

  これは<Tell me about it.>の訳です。
  文字通り「どうやるんだ?」という意味で使われることもあるでしょうが、この言葉は、通常は<言われなくても分かっているよ>という意味の反語として使われます。
  <Great!>や<Very funny.>が、それぞれ、<すばらしい!>や<面白いや>ではなくて<何てことだ!>や<ふざけないで>という意味で使われるのと同じですね。


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  グリグリアは法廷の中央部分を囲っている柵に沿って行きつ戻りつした。(P.142)

  <Griglia was pacing along the rail that separated
the well from the rest of the courtroom.>

の<the well>が問題のようです。
  検察官グリグリアは検察側の証人ティナ・クレアにあれこれ尋問しながらrailに沿って行ったり戻ったりしていますが、そのrailというのは<法廷の中央部分を囲っている柵>?
  もし<法廷を中央で二分している柵>なら傍聴席を分けるための柵だろうと想像できますが、ここの訳では<囲っている>です。

  「英和中辞典」(旺文社)によると、「rails」と複数形だと「柵」を意味するようですが、ここは<the rail>と単数形です。
  <手すり><横木>あたりで考えないと<the well>が何であるかが分からないかもしれません。
  グリグリアは(法廷のほかの部分から)証人席(the well)を分けている手すりの前を右に左に歩きながら、証人への尋問を行っているのだと思われます。

  ただし、<well>というのは、普通は、周りより低くなった小さなスペイスを指すようです。アメリカの法廷の<証人席>は一段<高く>なっていることの方が多いので、形状が<well>という言葉と合致しません。
  裁判官席、証人席、陪審員席は弁護・検察フロアーより高い位置にありますから、この<well>は被告人席と弁護人席、検察官席があるフロアーを指しているという可能性もありますが、そうだとすると、<rail>の位置が特定できなくなってしまいます。この<well>は<証人席>というのが妥当だと思います。

  映画やドラマをみると、検察官や弁護人がその前を行ったり来たりする<rail>は傍聴席の前の<rail>であることが一番多いのですが、ここの原文からはそうは読み取れません。