第90回 保岡法務大臣のおかしな“恥の文化”感覚 2008/08/04  閲覧(304)

  政治家が怪しげなことを口にするたびに、それにいちいち驚いたり呆れたりしていたら、普通の精神と神経の持ち主である(多くの)国民は“身が持たない”ことになってしまいかねません。

  ですから、国民は、ほとんどの場合、そんな愚かな発言は“聞かなかったこと”にして、もっと大事なこと、つまり、自分の日常生活に目を向けなおすことになります。

  ところが、保岡興治法相の2日の初閣議後の発言は、簡単には無視できない類のものでした。
  記者会見で「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」「希望のない残酷な刑は日本の文化になじまない」と述べたのです。(毎日新聞 2008年8月2日)  

  <だから、(将来の保釈がない)“終身刑”には反対だ−死刑制度を維持するべきだ>というわけです。

  でも、待ってくださいよ。<日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している>ですって?
  どんな頭があったら、こんなところに“恥の文化”などという言葉を持ち出すことができるのでしょう?
  法相、こんな粗雑な頭脳と言葉使いで、こんな重要な問題を語ってもらっては困ります。

  いえ、犯罪被害者やその家族・親戚・友人などが<凶悪犯罪を犯した者には(“潔く”かどうかはともかく)死をもって償わせたい>と考える−というのなら、それはそれで分かります。ですが、その考えは<日本の恥の文化>とは何の関係もありません。むしろ、“目には目を”といった古来の報復刑の考えと酷似しています。

  では、凶悪犯罪者の方は<ああ、恥ずかしいことをしでかしてしまった。ここは“潔く”死刑を受けよう>と考えるでしょうか?<“希望のない残酷な刑”=終身刑を受けるよりは死刑にしてもらった方がいい>と思うでしょうか?
  日本人の凶悪犯罪者はそこまで“恥の文化”申し子=信奉者なのでしょうか?
  そんな統計上の数字があったら、法相、ちゃんと公表してください。デタラメを言うのはやめてください。

  <潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している>?
  <多くの国民>が(万が一自分が凶悪犯罪者になってしまったら)<潔く死をもって償う>つもりでいる−とでもいうのでしょうか?まさか!
  死刑か終身刑かを論じるとき、日本の“恥の文化”はまったく無用なのです。じゃまなのです。

  ところで、死刑支持者は、ふつう、<死刑がなくなると凶悪犯罪が増える>と主張しますよね。(そのことを統計的に証明した国は世界のどこにもまだありませんが)<死刑には凶悪犯罪を抑止する力がある>と説明しますよね。
  保岡法相もそう信じているから死刑維持論者であるのでしょうね?

  でも、法相は一方で、(将来の釈放がない)終身刑を<希望のない残酷な刑>だと言います。終身刑の方が死刑よりも“残酷”だと考えていますよ。

  だったら−。
  凶悪犯罪を抑止する効果は、死刑よりも“終身刑”の方が大きいということになりますよ。
  法相は、自分が死刑存続を望む主な理由が<凶悪犯を減らすため>というのだったら、むしろ“終身刑”の推進者にならなければならないわけです。
  保岡法相は実に無様な論理矛盾に陥っています。
  
  アゲアシトリではありません。法相の思考はそれぐらい甘くデタラメなのです。
(法相が、世界の民主国家がすでに放棄している“報復刑”の信奉者ではないことを願っています)

  最近、<他人を無差別に殺せば自分も死刑になる(してもらえる)と思った>というように犯意を述べる犯罪者が増えているようです(悲惨な世の中ですね!)。
  死刑には死刑支持者が信じているような効果が、実は、あまりないかもしれないということです。

  もし、保岡法相が信じている(らしい)ように、“終身刑”がそれほど“残酷”なものなら、(将来の釈放がない)終身刑を制度化した方が、このての犯罪者は減るだろう−ということになります。

  日本の法相たる者にはあまりにも非論理的で無責任な、こんな発言はしないでいてもらいたいものです。

  福田首相が政権維持という大きな望みを込めた改造内閣。ですが、その中身の閣僚は、相変わらず、この程度なのですね。