第364回 「国内最古級の硯が出土」というニュース

  こういうニュースがありました。
  【弥生時代の国内最古級すずり出土 倭人伝の記述裏付け 糸島市 [福岡県]】 西日本新聞http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/227991 2016年03月01日19時54分 更新 03月02日 02時07分)
  <福岡県糸島市教育委員会は1日、同市の三雲・井原(いわら)遺跡で、弥生時代後期(1〜2世紀)のものとみられるすずりの破片が出土したと発表した。同遺跡は3世紀の中国の史書魏志倭人伝」に登場する伊都国の王都があったとされ、中国の前漢時代から朝鮮半島北部に置かれた楽浪郡製と同形式の土器も多数出土している。倭人伝には、伊都国に滞在した楽浪郡使節が外交文書などを取り扱ったとの記述もあり、これを裏付ける発見として注目される><弥生時代のすずりの発見は松江市の田和山遺跡に次いで国内2例目>
  <倭人伝は伊都国に派遣された楽浪郡からの使者について「津に臨みて捜露(そうろ)(検閲)し、文書・賜遺(しい)の物(たまわりもの)を伝送して」と、伊都国沿岸部で品物の検査や文書の伝達などを行っていたと記述している。三雲・井原遺跡では、楽浪系土器も50点以上出土しており、糸島市教委は「楽浪郡や中国との間で交わされる外交文書などが伊都国で作られた可能性が高まった」としている
  <田和山遺跡のすずりも調査した九州大の西谷正名誉教授(東アジア考古学)は、同遺跡では楽浪系土器が出土しておらず、すずりも実用品ではなく宝物として扱われた可能性があることを指摘。三雲・井原遺跡のすずりについて「日本における文字文化が、弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す発見ではないか」と話している>
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  朝日新聞中村俊介編集委員は、この出土について、こうリポートしています。
  【弥生時代、文字使い外交か 福岡で最古級のすずり発見】(http://www.asahi.com/articles/ASJ2Y5R8KJ2YTLZU001.html) 2016年3月5日01時13分
  <中国や朝鮮半島に近いこの一帯は日本列島と海外をつなぐ外交窓口だった。倭人伝は、伊都国には女王卑弥呼が派遣したともいわれる役人や海外からの使いがおり、文書類も点検したと記す。市教委は、すずりは倭人伝の記述を裏づけ贈答品の返礼書作成など外交文書のやりとりが行われていた、とみる>
  <西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「文字文化や外交文書行政の始まりを知る資料だ。先進文化は外交拠点のここに入り、国内に広がったのではないか。すずりの時期は(紀元前の)弥生中期にさかのぼる可能性もある」と話す>
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  「“邪馬台国”なかった」「失われた九州王朝」などの著書がある民間の考古学者・故古田武彦氏がこんな記述を残しています。
  【北朝認識と南朝認識 文字の伝来】 (http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakatta6/ninsiki.html
  (二〇〇九年四月二六日にNHK教育テレビで放送された「古代人々は海峡を越えた(日本と朝鮮半島二〇〇〇年第一回)」と題する番組で)<(文字の伝来について)特に、何度も「百済から日本へ」の伝来が発端だった旨、強調されたのは、山尾幸久氏だった><氏の強調された「百済起源説」には、有名な「典拠」がある。隋書イ妥たい国伝だ(通説では「イ妥」は「倭」に改定)><「文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済において仏経を求得し、始めて文字あり」><この一文をもとに、山尾氏は「日本の国家、そして律令の発展にも、『文字の存在』が不可欠であったこと、そしてその肝心の『文字の淵源』が百済にはじまること」を述べ、「百済から倭国へ」の文字伝来の歴史的意義を強調されたのである> 
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  大半の日本人は、受けた教育のどの時点かで、上の山尾氏が唱える「『文字の淵源』が百済にはじまる」説を“定説”として教え込まれたはずですよね。
  しかし、弥生時代に国内最古級すずりが福岡県糸島市の遺跡から出土したという事実は、山尾氏が根拠としているという「出土隋書イ妥たい国伝」の「文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済において仏経を求得し、始めて文字あり」とはまったく相いれません。
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  インターネット上にこんなペイジがありました。
  ■□■□■ 漢字の伝来について(HISASHI/解法者)■□■□■
  <日本への漢字の伝来 投稿者:解法者  投稿日: 6月15日(火)23時43分31秒 >
  <日本にいつ文字が伝わったかについては定かでなく、「隋書」倭国伝に「文字なし・・・百済において仏経を求得し始めて文字あり」とあります><この記事は538年百済の「聖明王」が仏像と経典を献上した事実に合致するといわれている。とすると、日本での漢字の習得は6世紀ということになるが、朝鮮の釜山近郊の古墳から発見されたものの一つに「筆管」があり、確か紀元前1世紀のものであると韓国の考古学の本で読んだ記憶がある><とすると、日本と目と鼻の先に「筆管」が存在したことになり、そのころには日本にも漢字が伝来したのではなかろうか><日本での漢字の習得が6世紀というのはあまり信憑性がないのではないかと考えますが>
  <Re:日本への漢字の伝来 投稿者:オロモルフ  投稿日: 6月16日(水)12時43分24秒>
  <そうですよね><六世紀というのはちょっと新しすぎますね><漢字といっても役人のほとんどが使いこなすようなレベルから、一部の学者が首を捻るレベルまで、たくさんありますから><日本にも紀元前の鏡がたくさん発掘されており、その鏡には常に漢字が書かれておりますから、そういうものへの興味は、紀元前から有ったと思います><また、『魏志倭人伝』には、魏の王が卑彌呼に贈った文書が書かれているので、そういう文書を卑彌呼やその配下が見て内容を理解したのは確かだと思います>
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  上の山尾説よりはこの「漢字の伝来について(HISASHI/解法者)」に書かれていることの方がよほど道理にかなっていると感じます。「そういう文書を卑彌呼やその配下が見て内容を理解したのは確かだと思います」という受け取り方が自然です。
  しかも、こんど出土した「硯(すずり)」は「紀元前1世紀に朝鮮の釜山近郊の古墳から発見されたといわれる“筆管”とは異なり、紛れもなく「紀元前1世紀〜紀元後2世紀」のものとして日本「国内」で発見されているわけですからね。
  大陸・朝鮮半島とは海でつながれているだけの北部九州と出雲地方に歴史の早い時期に伝わった「文字(漢字)は、百済が認識する「日本」では6世紀まで使われていなかった、ということのようです。
  新たな「硯」出土で、「日本」への「文字(漢字)の6世紀“初”渡来説」は、改めて、その根拠を失ってしまっています。
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  では、今度の「硯」の出土という考古学上の事実と、「隋書イ妥たい国伝」が伝える文献上の記録が異なるのはなぜなのでしょうか。
  山尾氏が「百済から日本へ」というときの「日本の国家」は「紀元前1世紀〜紀元後2世紀」に北部九州に存在した「国家」とは異なっていた、という解釈が最も自然なものだと思えます。
  それで、考古学上の発見と後世紀の文献に記載されていることの間に矛盾がなくなります。
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  「日本の国家」は“卑弥呼”以来ずっと近畿地方に存在し続けたという思い込みがあれば、山尾氏でなくとも、上の“矛盾”を学問的に解消することはできないでしょう。
  つまり、新聞は「国内最古級すずり」と書きますが、「硯」が持ち込まれたときの「国」は、のちに律令国家を作り上げていった近畿天皇家が支配した「国」とおなじではなかった、ということだと思います。
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  この「硯」の出土で、古田武彦氏の「失われた九州王朝」などの力作にさらなる説得力が加わりました。
  興味がある方には「新・古代学の扉」(http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html)を訪ねることをお勧めします。
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  「時事往来」に【九州年号 多元的史観】というエッセイを書いたことがあります(1988年9月29日 (http://d.hatena.ne.jp/ourai09/20090429/1240957115)。その中で古田武彦氏の説を少し紹介しています。
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