「父の腕時計」 

  加州毎日新聞「時事往来」 --1987年10月28日--

  =加州毎日新聞(California Daily News)は1931年から1992年までロサンジェルスで発行された日系新聞です=

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  人の価値観というのは傍からはどうも判じにくい。この世にはそれこそ<人の数だけ>価値観があるようだ。

  それにしても、腕時計に関する限り、父の価値観はずいぶん控え目だったような気がする。

  長年の念願が叶って父がオメガの腕時計を手に入れたのはたしか一九八一年の秋だった。母と二人で日本から息子夫婦に会いに来た際、ある日立ち寄ったロサンジェルスの免税店でのことだったと記憶している。

  旅行中、他に何といって欲しがらなかった父は、免税店に入るやいなや、妙に腕時計に執着を見せ始め、母と息子の妻を驚かせた。<いい腕時計を一つ買う>というのは、どうやら、旅行前から父の大きな楽しみになっていたものらしかった。

  父が気に入って買ったのはしかし、スイス製とはいうものの、特に高価でも高級でもないオメガだった。もちろん、買った父の満足感がそれを十分貴重なものに見せていたのだけれども…。

  ところが、はるばる太平洋を越えて福岡に渡ったこのオメガが予想もつかない“横道者”だった。

  改まった機会以外は父の本棚の定位置に収められ、大事にされ過ぎていたのが悪かったはずはないのだが、ちょうど保証期間が切れた頃にこのオメガのベルトが切れてしまったのだ。父の失望落胆ぶりはかなりなものだったに違いない。

  父は泣くなくオメガの日本総代理店に連絡したのだが、切れた個所だけの修理は不可能だから、ベルト全部を取り換えなければならないという返事。費用を問うと、二万数千円だということだった。

  免税で得した分が早くも消え去っていくことを悔やみながらも、父が意を決して数週間後に再度連絡してみると、総代理店は今度は交換用のベルトの在庫がないという。

  その交換用ベルトが到着するまでの数か月間を父が辛抱強く待てたのは、たぶん、買うまでにかけた時間がもっと長かったからだろう。

  このあと何の問題も起こっていなければ父は、福岡からその総代理店にかけた電話の料金、費やした時間、そこまでに味わった失望落胆などを容易に忘れることができていたはずだった。

  いやはや、父はまったくついていなかった。取り換えたベルトが似たような個所でまた切れてしまったのだ。

  その後このオメガが父の手元でいったいどんな運命に遇ったかは、父以外には知る者はなかった。

  一九八五年の夏に、父母と共にヨーロッパを旅行した。

  イタリア〜西ドイツ〜オーストリアと回って、スイスのアイガー北壁の真下の町グリンデンワルドに着いてからのことだ。夕方、登山客と観光客で賑わうその町の散歩を楽しんでいたとき、父が突然、一軒の店の前で立ち止まり、そのまま動かなくなってしまった。−−時計店だった。なるほど、看板にはオメガの文字が大きく記してあった。

  その夜、宿で、スーツケースの奥底から父が大事そうに取り出したのがあのベルトが切れたスイス製の腕時計だったことは言うまでもない。

  翌日訪ねたその時計店の、一見無愛想で大層ぶった白衣姿の店主は見かけによらずずいぶん親切だった。旅行中で、部品が取り寄せられるのを待つ時間のない父のために、店主は<応急措置だから、ベルトを少し短くしてしまうことにはなるが>と説明したあとで、約束した時間内に見事にベルトを修理してくれたのだ。

  修理費もいらないと告げられた父がスイスという国を見直したとしても、それを軽薄だと非難する者はいないと思う。−−父のオメガは買われてから四年後、やっと再び父の手首に収まることになったのだった。

  修理でベルトが短くなったためか、あるいは、タバコをやめて太り始めたためか、とにかく少し腕に食い込むようになったのも気にとめず、父はいまでは毎日オメガを手首につけているそうだ。

  一度、そのオメガを譲ってくれと父をからかったことがある。「ばかを言うな」が返事だった。父はいまでもあのオメガに満足しているようだ。

  ところで、あの日本総代理店のサーヴィスはいったい何だったのだろう。

  腕時計に関する父の価値観はやはり、ずいぶん控え目なものだったと思う。