第281回 決まりが必要以上に“複雑・あいまい”だと

  それが何に関することであれ、“決まり”を必要以上に、複雑に、あるいは逆に、あいまいにしておくと、やがて、その複雑さやあいまいさを悪用しようという者が出てきます。
  いやいや、悪用しようというので初めから“決まり”を故意に複雑、あるいは、あいまいにしておこうと考える者さえ、現実の世の中には少なくないようです。
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  マニラ首都圏のマカティ市にある我が家の近所に、自動車の通行量がけっこう多い六叉路があります。
  まずは、この交叉点にはどういう道路がどいうふうに交わっているかを、いくらか簡略化して説明しておきます。
  中心になるのは、ほぼ南北に走る、両方向への通行が可能な道路A
  次に通行量が多いのが、交差点から西(のマニラ方向)へは一方通行、東へは両方向通行が可能な道路
  道路がこの二本だけなら、この交叉点がこのエッセイに登場することはなかったのでしょうが、そこに、南東から交差点までは一方通行だが、北西から交差点へは両方向通行という道路Cが加わっています。
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  どうです?この交叉点の中心を挟んで片側が一方通行となっている道路が、三本のうちに二本もあるのです。自動車の流れがどうしても複雑になってしまう、やっかいな交差点だと感じませんか?
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  さて、実際に自動車を運転してこの交叉点にさしかかると…。
  困ったことに、道路には、南東への進入が禁止されていることを示す標識がどこにもありません。それだけではありません。この道路には、北西と南東の両方向への入り口のどちらにも信号灯がないのです。ですから、南東から交叉点にさしかかった運転手は、本来は道路Bの西向け一方通行用信号灯が設けられるべき場所にある信号が青になったのを見て車を進めます。北西からは、直進を除く、すべての方向へ通行できるのですが、正面に信号灯がないのですから、交叉点内のほかの自動車の流れを見て、自分で是非を判断しながら、道路Aを北か南へ曲がるか、道路を東か西へ、車を進めるかすることになります。
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  現実にこの交叉点を見ずに、上の説明だけで、様子を想像するのは容易ではありませんよね。
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  さて、この交叉点にはもっと厄介な問題があります。
  道路Aを北上する自動車が道路を西に向かってこの交叉点で左折することはできません。禁止されているのです。できないのに、道路A沿いの信号灯の下にも、道路わきにも、左折禁止の標識がありません。
  その標識がないのには理由がないこともありません。というのは、道路Aを北上してきた自動車は、この交叉点から北西に走る(両方向通行の)道路へは進入ができるのです。
  くり返しますよ。道路Aを北上してきた自動車は、西への一方通行へは“完全(90度)左折”できないのに、北西への“半(45度)左折”はできるのです。
  道路上で待ち構えて、左折禁止違反の運転手を捕まえている警察官に「おかしいのではないか」と直接に尋ねたことがあります。警察官の説明は「ここで(完全)左折を許すと、道路Aを南下する自動車の流れを妨害する」というものでした。
  しかし、考えてみてください、「道路Aを南下する自動車の流れを妨害する」のは“半左折”もおなじです。流れを妨害させないためになら“完全左折”も“半左折”もともに禁止しなければならないはずです。
  しかも、道路Aの北向き運転手に見えるような「“半左折”はできるが“完全左折”はできない」ということを示す標識は、正面の信号灯付近にはまったくないのです。
  道路Aを北上する道路上には、実は、少し前までは、左折禁止を伝えるペンキ文字がないどころか、左折可能を示す矢印さえ描かれていたのですよ(再舗装された際にこの矢印はなくなりました)。その矢印を信じて左折をして捕まってしまった運転者が交通取締官にその点を指摘しても、結局は、道路を南東から走ってきたあとに道路を西向きに進む車を対象に設けられた信号機の(横の)ポール(の、ピーナッツ売りが屋台の店を出してアンブレラを広げればすっかり隠れてしまうような低いところ)につけられた標識が公式の(有効な)ものなのだから、それを見落とした者に否があるある、として反則切符を切られていたと思われます。
  無茶な話ではありませんか。道路Aを北上してきたあと、(仮に目につくにしても)とっくに“半左折”状態になってからでないと見えないものが“公式”の左折禁止標識?
  この交叉点に初めてさしかかった運転者には、この左折禁止標識は、道路を南東方向から北西方向へ直進してきた車に向けられたものにしか見えないのです。
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  つまり、道路Aから道路の西側一方通行へと左折した違反者を取締官が捕まえ(てクォータ=ノルマを達成す)るためだけに、この交叉点の標識は設置されているかのようなのです。
  いやいや、実際に、左折違反で捕まる車は後を絶ちません。この付近に初めて車を乗り入れた運転者があとからあとから“餌食”となっているのでしょう。
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  兄夫婦らが日本から訪ねてきたときには、ルソン島のあちこちのリゾートへと遠出のドライヴを楽しみます。
  その楽しみにときどき水を差してくるのが、そう、不必要に複雑であるかあいまいかである道路交通標識を“悪用”する交通取締官たちです。違反があったかどうかは彼らの判断しだい。
  「街路の木立の茂みのせいで標識が見えなかった」は「見なかったアンタが悪い。見ようとするのが運転者の義務だ」となります。「大きな罰金を払わなければならないような、そんな重大な交通違反ではない」には、車を停めた取締官の仲間数人が「重大な違反だった」という“証言”者として姿を現します。
  そんな証言者がいるのですから、たとえ交通違反裁判に持ち込んだとしても、勝つ可能性は、運転者にはまずありません。
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  いえ、ここでは、フィリピンの交通取締官には“悪人”が多い、と訴えているわけではありません。
  初めに述べましたように、この世の中では、決まりを必要以上に、複雑に、あるいは逆に、あいまいにしておくと、やがて、その複雑さやあいまいさを悪用しようという者が出てくる、と言いたいのです。
  もっと悪いのは、悪用しようというので初めから“決まり”を故意に複雑、あるいはあいまいにしておこうと考える“知恵者”が出てくることです。
  決まりの“複雑さ”や“あいまいさ”を利用して騙しにかかってくる手合いに気づくだけの理性や知性、判断力は常に持ちつづけていたいものです。
  参議院議員選挙が近づいています。政党が発表するマニフェストにだって十分に気をつけなければ…。複雑さ”や“あいまいさ”の陰に、少なからず、ごまかしが隠されている恐れがありますからね。
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  そうそう、我が家の近所の、その交叉点の、適切ではないところに設置されている左折禁止の標識が、取りつけられていた鋼鉄製のポールが切り取られて、盗まれたことがありましたよ(いまは、うんと太いポールに標識がとめられています)。捕まった違反者の一人が“腹の虫を収めるために”やったのでしょうね、たぶん。
  再び取りつけられた標識にも、“NO(T) FAIR”という落書きが残されています。