第252回 「梅ちゃん先生」 −3− そんなばかな!

  NHKの“朝ドラ”「梅ちゃん先生」がもうすぐ放送終了を迎えますね。
  この番組を見なくなってからかなりの日数が過ぎていますので、ストーリーがいまどんなところに来ているのかについては想像もつきません。
  うすまってくる記憶に頼ってではありますが、このドラマがいかにでたらめ、無責任に制作されていたかを再び書くことにします。
  なぜならば、この“朝ドラ”が、「苦言熟考」の持論である「日本人は、言いたいことは言うが、その主張が正しい道筋で考え出されたものかどうかについては、ほとんど無頓着になっている(だから、日本は、無責任な主張がやたらとまかり通る国になっている)」ということの典型的な一例だと考えるからです。
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  前回に予告しておきましたように、ここでは梅子の“お見合い”の場面がどれほど「そんなばかな!」にあふれていたかについて書きます。
  この“朝ドラ”は、自分が生まれ育った下町を愛する、まわりの人に愛される、心優しい町医者、梅子の半生を描き出そうという意図でつくられているはずです。そして、その意図というのが、つまりは、この番組の「自分が言いたいこと」ですね。
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  脚本家や演出家はすでに、父親が教授を勤める大学医学部の研究生であった梅子を、酒飲みで型破りな開業医の“医療哲学”に感化されたという具合に、かなり強引にストーリーを展開させて、東京の大田区蒲田(の自宅)で町医者にしていました(開業医が不要になると、その誕生日に交通事故に遭わせて死なせてしまう、というのも、いわゆる“ご都合主義”の典型的な一例です)。
  その梅子はいわゆる“適齢期”に入っています。研究生であったころに梅子とたがいにかなり親しくなっていた先輩医者を、ストーリーの展開に邪魔だというので、(当時の外貨=ドル不足などはまったく考慮しないで)あっさりと留学させた脚本家たちは、さあ、梅子を結婚させなければなりません。蒲田に定住させなければなりません。
  脚本家たちは、ストーリーの初めから梅子の幼馴染を用意していました。隣家の零細鉄工所の一人息子です。いまでは立派な跡継ぎになっています。
  さて、幼馴染み同士であったとはいえ、零細鉄工所の跡継ぎと医者という、いささか異例の組み合わせである二人を結婚させるには…。
  脚本家たちはまず、梅子を“大きな製薬会社の重役の息子”と見合いをさせます(隣の鉄工所でも、年頃の息子の嫁探しが同時に進んでいます)。
  梅子の“見合い”は“重役”が住んでいると思われる、下町とはあまり縁がない土地で、ではなくて、梅子の地元、蒲田の(鉄工所の主があとで「蒲田で見合いができるところといえば、ここしかないだろう」と言う)料亭のようなところで行われます。
  これは昭和三十年代の半ばごろの話です。当時としては、“お見合い”は男性側の都合に合わせた場所で行われるのが普通だったはずなのですが、そうしたのでは、鉄工所の息子の“見合い”も、偶然にも、おなじ日に、おなじ場所の、(話を展開させるには都合がいいことに)襖で仕切られただけの、隣の部屋で行われるという設定が成り立ちません。…さあ、脚本家の無理押しが始まりました。
  ですが、その設定が成り立たないと、そのとき、その場になって“お見合い”を断わる知らせを受け取って怒りだした鉄工所の主が大騒ぎして、二つの部屋の境の襖を押し倒してしまい、梅子たちの“お見合い”の席になだれ込んでしまう、という(かなり現実離れした)話にはなりません。
  そういう話にならないと、“製薬会社の重役の息子”に、下町の人間たちの行儀の悪さなどについて悪口を言わせることができません。
  それができないと、梅子が“重役の息子”が住む世界は自分のものとは違う、自分はやはり下町(とそこに住む人たち)が好きなのだ、と思うきっかけがなくなります。
  そのきっかけがないと、幼馴染みである鉄工所の息子に梅子が目を向けるようになる動機がなくなります。
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  それまでにも、すでに、ずいぶん無理を重ねてきていた脚本家たちは、ここでも、梅子の家と鉄工所家族がそれぞれ自分の家の“お見合い”の日時と場所については隣家に伝えていなかったという、大きな「そんなばかな!」をしでかしてしまったわけです。隣同士で長年暮らしてきた両家は、おなじ時期にそれぞれの子供を見合いさせていることはちゃんと知らせあってきていたというのに…。 
  この連続ドラマをここまで見てきた者には、梅子の下村家と鉄工所の安岡家がそれぞれの“見合い”の日時と場所を隠しあう関係だったとは、絶対に、思えないはずです。殊に、鉄工所の主は、大学病院の医者である梅子の父親には(対抗意識から)事あれば何かと自慢したがる人物として描かれてきていたのですから。
  その日時、その場になって初めて、この二つの家族が襖を隔てただけの場所で“見合い”にのぞんでいたことを(襖の向こうから聞こえてくる、鉄工所の主の怒声について梅子の母親が「あら、どこかで聞いたことがあるような声ね」と言う、といったふうに、実に、間が抜けた形で)知る、という設定はあってはならないのです。ありえないのです。
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  梅子を蒲田で結婚生活を送らせるためには、“製薬会社の重役の息子”に下町の住人を馬鹿にさせるのがいい、と考えた脚本家たちは、梅子の家と鉄工所家族の日ごろの親しいつき合い振りには目を向けずに、“(偶然にも)襖をはさんだだけの二部屋での同時間の”見合いを思いついたのですね。自分たちが言いたいことだけに頭を占領されてしまって、それがありえないことではないかとは考えなかったのですね。
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  「自分が言いたいこと」を多くの「そんなばかな!」で支えたつもりになっている脚本家と演出家!
  「自分が言いたいこと」は言うのだけれども、それが正しい(まともな)道筋で語られているかどうかには関心がない人たち!
  「自分が言いたいこと」を言うためには、どんな理不尽な筋でもかまわずでっち上げる多くの日本人!
  「梅ちゃん先生」は、そんな日本人が制作している、典型的な“筋が通っていない”あるいは“筋を通そうとすら考えてもいない”ドラマです。
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  東北から集団就職してきた男の子を迎えた鉄工所が、その歓迎夕食会がたけなわになるまで、その男の子の寝所について考えていなかった、考えていなかっただけだけではなく、新婚の梅子と鉄工所の息子が寝る部屋に枕を並べる形で男の子を寝かせることにする、というシーンを最後に「梅ちゃん先生」を見なくなりました。…さらに我慢してまで見つづける価値があったとは思いません。
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