第208回 “匿名”報道は信頼喪失のもと

  カリフォルニア大学リヴァサイド校に短期語学留学したのは1979年でした。半年間で実に多くのことを学びましたが、その中で特に記憶に残っていることの一つは、ヴィデオに収められたテレヴィショウを見るという形で受けたリスニングの時間に、ウォルター・クロンカイトというニュースキャスター(アンカーマン)を紹介されたことです。キャロルという名の教師はこのキャスターを、アメリカで最も信頼されている報道人だ、とクラスの外国人学生たちに説明したのです。
  <最も信頼されている>ですって?
  <最も好感を持たれている>報道人は、当時の日本にもいたかもしれません。たとえば、1960年代にTBSでニュースキャスターを務めていた田英夫氏のように。ですが<最も信頼されている>?その言葉に正しく該当する日本人を、わたしはだれ一人として思いつきませんでした。
  ニュース報道ということに関する考えがアメリカと日本では違っているのだ、と感じました。ニュース報道の良し悪しとキャスター(アンカーパーソン)の質との関係があまり厳しく問われることがない日本と違って、アメリカでは、ニュースを伝える個々の人物が信頼できるかどうかということに、ニュースの真実度とおなじ重みが与えられているのだ、ということを知って、ある種のカルチャーショックを覚えました。
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  日本のテレヴィニュースを見ていると、当然のことながら、しばしば、アナウンサーや放送記者が事故や事件の現場からリポートするところに行き当たります。ところが、そのほとんどの場合で、自分が誰であるかを明らかにするのがまるで罪悪でもあるかのように、リポーターは「XXから00がお伝えしました」とは締めくくりません。代わりに「首相官邸でした」「XX市の事故現場でした」などと言います。ひどい日本語の使い方だと思いませんか?「首相官邸からお伝えしました」「XX市の事故現場からの中継でした」などでさえないのですよ。
  いえ、スタディオのアンカーが「XXから00記者に伝えてもらいます」というふうにすでに紹介していれば自ら名乗る必要はかなずしもないと思いますよ。でも、その紹介がなくて、字幕で名が一瞬だけ示されるような場合にはどうなのでしょう?記者・リポーターには自分の名を名乗らせるべきではありませんか?名乗らせて初めて、記者・リポーターは責任ある仕事をしたことになる、と感じませんか?
  少なくともアメリカとヨーロッパのテレヴィメディアは、現場からの報告の最後は、基本的に「(XXから)00がお伝えしました」と名乗って締めくくることが普通であるようです。そのニュース報道の、第一線での責任者がだれであるかを視聴者にはっきりと伝えよう、という意図があるのだと思います。
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  日本では、テレヴィだけではなく、新聞の記事も似たようなもののようです。少なくとも、各社のインターネット版を見る限りでは、いわゆる署名記事には実にまれしか行き当たりません。なぜなのでしょう?
  国内のものなら共同や時事などの通信社が配信した記事をほとんどそのまま転載するだけだし、一方の外国ものならロイターやAPなど記事を翻訳(抄訳)するだけだから、自社の記者名を付すわけにはいかない?そうならば、せめて、通信社から受けた記事であることを明確に示すべきでしょう?共同の記事について東京新聞がやっているように。それが読者への正しい責任の取り方ではありませんか?
  自社記事については?ここでも取材した記者の名が分かることはあまりありません。記者クラブなどで発表される情報をそのままニュースとして流すことがほとんどで、特に取材といわれるような取材はしてないからなのでしょうか?
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  東日本大震災東京電力福島第一原子力発電所の事故、さらには、それらへの民主党政府の対応などに関する報道ぶりを見ていて感じるのは、日本の報道界は各機関のあいだに個性の差がなさすぎる、ということです。横並びの<他社の顔色・出方をうかがう>報道に終始して満足しているようだ、ということです。出来事の本質に迫る手間をかけずに<みんながおなじことを報じていれば怖くない>という怠慢きわまりない、自尊心に欠けた信条を抱いているらしい、ということです。
  <横並び>というのは、日本人の中に、ある一定の“世論”を形成するには、多分に、有効なやり方なのでしょう。たとえば、菅政府への支持率をほとんど極限にまで下げたように。あるいは、裁判を受ける前の民主党小沢一郎氏をすでに犯罪者であるかのように大半の国民に思わせたように。あるいは、大関魁皇が達成した通算勝利数の角界記録を、それがあたかも横綱千代の富士のものに匹敵するものであるかのように国民に錯覚させたように。
  それが正しい報道だといえるのでしょうか?それで事実は伝わっているのでしょうか?事実というのは全報道機関の<横並び報道>ででもちゃんと伝わるものなのでしょうか?
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  報道機関の<個性>はどこに行ってしまったのでしょう?国民が必要としている多様性のあるニュース報道は、日本では、とうに死に絶えてしまっているのでしょうか?
  そうそう、日本の記者やリポーターは、せっかくニュースの発生現場にいるのに、本社のデスクと語り合って合意したことしかリポートができません。現場での突発的な出来事にもちゃんとは対応できません。それは彼らが、自らの頭脳を使って事態を把握し、それを文章にまとめて説明するという作業をしてこなかったからに違いありません。“個”を消し去って報じることを、所属する報道機関に強いられてきたからにしろ、記者やリポーターが自分を磨くという努力をまったくせずに過ごしてきたからに違いありません。
  デスクが仕上げた記事を読み上げているだけでは“個”は輝きません。“個”を磨きぬかなければ<信頼>は得られません。個々の記者・リポーターが<信頼>されなければ報道活動自体が信用されません。日本の報道機関はそのことを理解していません。
  現場で取材する記者やリポーターには自分の名を名乗らせるべきです。日本の報道界に有能な人材を育て、その信頼度を高めるにはどうしても必要な改革です。
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  テレヴィにしろ、新聞にしろ、取材した記者は自分がだれであるかを普通は明らかにしなくてもいいのだ、というような悪習が日本の報道界で育ったのはなぜだったのでしょう?
  一般の記事については、記者・リポーターは情報伝達の手段にすぎない、だから、報道内容に関しては、それぞれの報道機関が全体として責任を取ればいい?
  一つのニュースを(多くは男女の)二人のアナウンサー(アンカー)が読み分けるのも、おなじ理屈からなのでしょうね。アナウンサー(アンカー)はニュースを読むだけの道具だから、一つのニュースを何人で分けて読んでも、どんな不都合もない、ニュースの価値も変わらない?
  ずいぶん奇妙な理屈ですね。ニュースを伝えるアナウンサー(アンカー、キャスター)やリポーター、記者には“個”としての責任を負わせない、というのは?テレヴィ局は視聴者に彼らの顔を見せながらニュースを流しているのですよ。
  報道機関は、つまりは、彼らを縛りつけて、けっして暴走を許さないようにしているのでしょうね?大スポンサーの機嫌を損ねるような発言はさせない、記事は書かせないように。テレヴィ局と新聞社の営業を事実上監督している官庁とのあいだに摩擦を起こさせないように。大多数の読者と視聴者の好みに合わないことを言って視聴率を下げ、購読者数を減らさせないように。
  そうするためには、個々のニュースアンカー(キャスター)や取材記者、リポーターに<信頼>を過剰に集中させないことが大事なのでしょうね?彼らから個性を奪っておくことが?
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  日本の報道界には改めるべきことがありすぎるほどあると思います。匿名報道を優先するあまりに、報じることに無責任になっている、事実を追求しようとしていない、というのもその一つです。
  日本国民の多くに厚く信頼される報道人を一人も生み出せないことを報道界は恥じた方がいいのではないでしょうか。自由な報道とは、事実を報じるとは、いったいどういうことなのかを深く考え直すべきなのではないでしょうか。
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  ところで…。
  安部、福田、麻生という世襲議員出の三人の首相がそれぞれ実にあっさりと政権を投げ出した際には、やはりお坊ちゃま政治家にはホネがない、軽い、無責任だ、などというような批判をしていた人びとがいましたよね。おなじ人びとが、いわゆる草の根運動出身の菅首相がなかなか自主退陣しないのを目の当たりにしても、「さすがは成り上がりの政治家だ、そのねばり腰には感嘆させられる、これまでの日本政界にはなかったこの新タイプの首相にもう少し仕事をさせてみたらどうだろう」といったような記事を書かない−評論をしない−のは、いったいなぜなのでしょう?
  自民党最後の三人のダメ首相を軽いと否定的に評価した人びとは、その政策がどうのこうのという以前に、菅首相の粘着質の姿勢をほめてもいいのではありませんか?それが、だれに対してでも適用できる、視点を定めた、筋が通った人物評というものではありませんか?複数の人物に対して複数の評価基準を、自分の都合に合わせて使うというのは、身勝手な卑怯者がすることです。
  同様に、東京電力福島第一原子力発電所で発生した事故への民主党政府の対応のまずさを糾弾するのには熱心でありながら、その事故を発生させた原因である原子力政策を定め、実行してきた自民党の過去の失政には目をつぶる、というのもまったく筋が通っていないと思います。事の因果関係を無視した、バランスが悪い報道だと思います。全報道機関がいっせいに横並びになってそうだというのは実に大きな問題です。それは横並びの偏向報道です。
  「なぜ自民党は・・・したのか?」河野太郎 http://www.taro.org/2011/07/post-1047.php
  「日本の原子力は全体が利権になっている!」河野太郎議員会見 http://news.livedoor.com/article/detail/5525056/?p=2  
  発信箱:四つの原罪=倉重篤郎(論説室)http://mainichi.jp/select/opinion/hasshinbako/news/20110630k0000m070144000c.html