第123回 小沢氏と「説明責任」

  民主党の前党首である小沢一郎氏を弁護、擁護する意図はまったくありません。
  小沢氏について<苦言熟考>はこれまでに、批判的なエッセイをいくつか書いてきました。
  「小沢代表のカンチガイ」(http://d.hatena.ne.jp/kugen/20090511/1242045718
  「民主党小沢代表の裏切り」(http://d.hatena.ne.jp/kugen/20090511/1242045358

  「民主・小沢代表の公設第一秘書が逮捕されました」(http://d.hatena.ne.jp/kugen/20090304/1236163192)には−
  <いまどんな政党に属しているにせよ、小沢代表は自民党内で育った、自分を磨いてきた、自民党的な体質・思考方法を骨身に染み込ませた政治家です。党内民主主義だとか“開かれた政党”だとかいう概念が理解できない人物です>
  −と書いています。
  ですから、小沢氏が総額3億円とも言われる“献金”を西松建設から受けていた−と聞いても<あり得ることだ>と思いますし、次の総選挙で本気で政権を奪取したいのなら、民主党はやはり、もっと早く小沢氏を代表の座から下ろしておくべきだった−と感じています。

  しかし−。
  自民党公明党共産党、マスコミがこぞって、西松建設献金問題では<小沢氏には「説明責任」がある>と叫んでいることには首を傾げてしまいます。
  なぜといって−。
  小沢氏はいま、その公設第一秘書が“政治資金規正法”違反の容疑で逮捕され、起訴されているところです。この秘書への取調べの推移、裁判の行方しだいでは、小沢氏自身が何かの容疑で事情聴取されたり、逮捕されたりする可能性があります。
  小沢氏自身が犯罪者であるとの疑いをかけられることもあり得る状態にあるわけです。
  
  小沢氏は自分が罪を問われるかもしれない事柄について、裁判にさえなっていないのに、だれかに何かを「説明」しなければならないのでしょうか?

  アメリカの映画やTVドラマを見たり小説を読んだりしていると、追いつめられた容疑者が“I'm going to take the Fifth.”などと言う場面に出合うことがあります。この“Fifth”というのは米国憲法修正第5条のことで、その中に<何人も、刑事事件において、自己に不利な証人となることを強制されない>という一項があります(http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-constitution-amendment.html)。これらの容疑者たちはこの“権利”を行使すると言い立てているわけです。

  日本でも、何かの容疑をかけられたり起訴されたりした個人や企業が<係争中の一件ですのでコメントは差し控えさせていただきます><詳細については裁判で明らかにさせていただきます>というようなことを言うことが珍しくはありません。
  何かで訴えられれば、マスコミ自身も同様の態度をとります(たとえば、名誉毀損で訴えられることが少なくない新潮社を思い出してみてください)。
  このような“黙秘”の姿勢に対して(自民党公明党はいうまでもなく)マスコミが容疑者に「説明責任」を果たすように求めることはまずありません。アメリカの修正第5条の考えは日本でも広く浸透しているからなのでしょう。

  だったら、なぜ小沢氏だけに「説明責任」があるのでしょうか?
  小沢氏が「説明責任」を果たすことを拒みやすくしたのは、検察の拙速とも思われる<公設第一秘書逮捕>だったのではないでしょうか?
  参考人として秘書から事情を聴取もせずにいきなり逮捕して、結果として、小沢氏に“黙秘”することを許したのは検察だったのでは?

  待てよ。小沢氏は、自身が何の罪にも問われなければ、一切「説明」しないですませようとするのではないか?頬かむりしてやり過ごそうとするのではないか?

  国民はみなが愚かなのではありません。
  小沢氏が黙り込んでいれば、まだ明らかになっていないところで何があったかを国民は(おそらくは正しく)推察します。
  それに、自らが罪を問われないことが確定すれば、<自己に不利な証人となること>がなくなるわけですから、“黙秘”の正当性もなくなります。政治家としての「説明責任」が生じます。
  
  政治的に利を得ようという自民党公明党や、それに共産党などがいま小沢氏に「説明責任」を声高に求めるのは、まあ、当然なのでしょうが、マスコミがその音頭を取っているのは理解しにくいことです。
  警察・検察、裁判所の“自白偏重”の悪習にマスコミも染まりきっているのでしょうか?