再掲載 第38回 その“かな”はやはり「変じゃない“かな”」?

  2007年3月12日 初稿

  日本人はますます、自分の言うことに自信が持てなくなり、言ったことに責任を取りたがらなくなっているようです。

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  おそらく、ここ二年間ほどのことでしょう。
  気づいていますか?
  ますます多くの日本人が「…だ(です)」と言い切らず、「…だと思う」とさえ言わず、代わりに「…ではない“かな”と思う」というふうに表現するようになっていることに?

  中学生や高校生のあいだのはやり言葉ではありません。

  わたし自身はずっと外国暮らしをしていますから、日常的に使われる日本語を耳にするのはテレヴィNHKの国際放送など)を通じてのことですが、そこで知る限り、この流行は大学生、主婦、サラリーマン、商店主から芸能人、プロ野球選手、財界人、政治家にいたるまで、つまりはあらゆる職業、層、立場の人々に広がっているようです。

  これは日本人を襲っている、かなり重症の表現上の病気です。

  たとえば、スポーツ選手が「調子は上がってきています。開幕までには100%になる“かな”と思っています」などと言います。
  たとえば、歌手が「きょうは最高のステージをお客さんに見ていただけた“かな”と感じています」などと言います。

  「100%になると思っています」「見ていただけたと感じています」とは、ほとんどの人が言いません。

  この“かな”は当人の自信のなさを示しています。
  この“かな”には、何かを言い切ることへの当人の、よく言えば“遠慮”、悪く言えば“おびえ”が表れています。

  それが政治家、政府高官の発言になって…。
  たとえば「業界の談合体質に対しては断固たる態度で臨んでいくべきではない“かな”と考えております」というような表現になってしまうと?

  「…臨んでいくべきだ」でもなければ「臨んでいくべきではないか」でもなくて「臨んでいくべきではない“かな”」なのです。
  腰砕けの、情けない、ごまかしの<考え>だと、わたしは受け取ってしまいます。

  いま、ほとんどの日本人がその、表現上の<腰砕け>病、<自信喪失>病、あるいは<ごまかし>病にかかっています。

  小泉政権以上に日本の将来をゆがめてしまう恐れがある安部政権のもとで、日本人は「それはおかしい」という自分たちの意見を自信を持って、ますます明確に表現しなければならなくなっています。
  “かな”などをつけて事をあいまいにしているときではありません。

  自分の感じ方、考え、意思、主張などをあいまいにしてしまう“かな”の流行はどこかでとめるべきです。
  これは深刻な社会的病気なのです。…そう考えています。
  
  そんな<自信喪失>の<責任を取りたがらない>日本人がなぜここまで増えてきたのかについて考えるところから始めましょうか。