第110回 1985年夏、あの果物屋の店員はなぜ怒ったのか

  前回につづいて<過去に現実に起こったことの意味が、最近、本を読んでいて偶然に分かった(ような気がする)>という話を読んでください。

  ちょっと遠回りになりますが…。

  すでに亡くなっている両親が初めて海外旅行を体験したのは1980年の春、父が68歳、母が60歳のときでした(生まれて初めて旅券を申請した際に、母の誕生日が、それまでそう思い込み、公の書類にもそう記入しつづけてきていた2月20日ではなくて、実は3月20日だったことが判明した、という“笑い話”もありました)。カリフォルニア大学リヴァサイド校の外国人向け英語プログラムで勉強していたわたしと妻(当時)を訪ねてきたものです。わたしたち夫婦は二人を案内しながら、ロサンジェルスからサンフランシスコ、ハワイと移動して、両親の全旅行行程をいっしょに楽しませてもらいました。

  父母の二度目の海外旅行は早くも翌1981年秋、わたしたち夫婦がオレンジ郡のサンクレメンテという小さな町で働いていたときに実現しました(母が道に迷い、親切なご婦人に車に乗せてもらい、長いあいだ探し回り、やっと、わたしたちが住んでいたアパートを見つけてもらった、とか、父がセヴンイレヴンでタバコを買おうとして“物貰い”に間違われた、とかいう椿事もありました)。

  三回目の訪問先は、友人のビジネスを手伝うためにわたしが半年間ほど滞在していたマニラ(フィリピン)でした。1984年のことです(アメリカやヨーロッパとは違い、フィリピンはちょっと危険な国だ、という意識は、二人にはまったくありませんでしたね)。

  さて、かなり海外旅行慣れしてきたその両親が<ヨーロッパにも行ってみたい>と言い出したのは翌1985年の初めごろでした。二人はそれまでの経験から<あの息子を連れていればどこにでも行けるし、楽しめる>と信じるようになっていたのです。

  その欧州旅行に両親が出かけたのはその年の夏。
  近畿日本ツーリストが企画した日本語ガイドつきのグループ旅行でしたが、もちろん、わたしは“お供”役で連れて行かれました。
  ドイツ、リヒテンシュタインオーストリア、イタリア、スイス、フランス、イギリスを回る二週間の旅でした。

  問題の“事件”が起きたのは、ハプスブルグ家が長く支配した都市、冬季オリンピックを二度開いた都市として知られるインスブルックオーストリア)でのことでした。

  わたしたちのグループはその町の目抜き通りを散策していました。
  グループの中のある女性が果物店の前で立ち止まりました。わたしたち三人も店をのぞきました。いろいろな種類の果物が、店頭から奥まで、それは美しく並べられていました。
  その女性がある果物(何であったかはもう覚えていません)を手に取り、その香りをもっと楽しもうとでもいうように、それを自分の鼻に寄せました。そのときでした。それまで愛想がよかった男性店員が急に声を大きくして、その女性を罵ったのは。
  いえ、罵っただけではなく、その店員は、女性の手から果物をもぎとると、それを屑箱に投げ入れてしまったのです。
  
  その女性とその友人、わたしたちは逃げるように店を離れました。女性の顔は青ざめていました。
  数分後に、みなで立ち止まり、顔を突き合わせるようにして、店員が何に怒ったのかを考えましたが、だれも答えを出すことができませんでした。
  <やはり、匂いを嗅いだのが悪かったのだろうか><腐っているとでも疑われたのではないか、ばかにするな、と、あの店員は思ったのかもしれない><この辺りでは、習慣として、客が店の果物の匂いを嗅いではいけないのだろうか><アジア人に触れられたのが嫌だったのかもしれない>などと、いくつか意見は出たのですが…。

  最近、イギリスの作家、JEFFREY ARCHERが書いた長編小説<AS THE CROW FLIES>(CORONET BOOKS 日本語タイトル「チェルシー・テラスへの道」)を読みました。
  ロンドンの庶民の町で生まれ、祖父が営む、手押しの二輪車を使った野菜果物店(“Charlie Trumper, the honest trader, founded in 1823”という文字がその二輪車に誇らしく書いてあります)を手伝い始めた7歳の主人公、チャーリー(祖父と同名)にその祖父が経営の“奥義”を伝えるところが、このペイパーバックの15ペイジにあります。

  "Never let 'em touch the fruit until they've 'anded over their money," he used to say, "'ard to bruise a 'tato, but even 'arder to sell a bunch of grapes that's been picked up and dropped a few times."

  文中の<’>は<’tato>を除けば<th>または<h>を表しています。ロンドンのこの地区では訛りとして<h>を発音しないのですね。

  試訳 :「彼ら(客)が代金を払ってしまうまで、果物にはけっして触らせていけないぞ」と祖父は言っていたものだ。「ポテトに(客が)キズをつけるのは難しいが、客が何回か手に取り、取り落とし(てキズがつい)たひと房のブドウを売るのはもっと難しいのだから」

  
  インスブルックのあの果物店もTrumperの店と同様のポリシーで経営されていたのかもしれませんね。<キズつきやすい果物は客に触らせるな>
  いえ、あの店員は、女性の手からもぎとって、あの果物をその場で破棄していました。<客が一度手にした果物は、落とされキズついたもの=売り物にならないものとみなして、その場で処分する>という、Trumperの店を超えた、ずいぶん厳しいポリシーを持っていた、とも考えられます。
  
  そうだとすると…。
  あの女性が果物に触れた時点で、店はすでに損をしたことになります。店員があんなふうに怒ったのには正当な理由があった、ということになります。
  小説を読んでいて<ああ、そうか><そうだったのかもしれない>と思いました。

  ただ…。
  おなじポリシーを持っている店が日本にあったとしても、日本では、店員が客の手から商品をもぎ取って、客の目の前でそれを屑箱に投げ込むというようなことはしないでしょうね。
  <客を教育しなければ、おなじ被害が減らない>とオーストリア人は考えるのかもしれませんが…。
  “文化の違い”なのでしょうかね?その辺りの事情に興味がわきます。

  オーストリアの商慣行に詳しい方にお願いします。
  小説に基づいたわたしの上の推察は間違っているかもしれません。インスブルックのあの店員の振る舞いの真の原因・理由をどうぞ解説してください。