第103回 「最後はやっぱりコネのようです」

     フィリピンでの友人の一人に17歳のG君がいます。G君はカレッジの学生ですが、わたしが住んでいるマカティ市からあまり遠くないところ、ニノイ・アキノ国際空港(第3ターミナル)近くにあるヴィリャモアー空軍基地ゴルフコースに併設されたゴルフ練習場で働いてもいます。
     ストール(ゴルファー一人分の練習用スペイス)のグラウンドを平らに整える、ゴルファーのためにボールを(打ちやすいように)ティーや少量の盛り土の上に置いてやる、ゴルファーがバンカーショットやチップショットの練習で打ったボールを集める−−などが練習場でのG君の仕事です。

     G君と初めて出会ったとき、彼はまだ16歳、高校生でした。
     わたしがG君を気に入ったのは、第一に、彼がまじめそうだったからです。仕事のうえでも、学生としても。
     第二に、彼は、十分だとはいえなかったものの、互いのコミュニケイションに欠かせない英会話力を備えていました。フィリピン人の多くが英語を話しますが、本人のやる気や努力がなければ、高校生ぐらいまでに(ある程度)流暢に話せるようにはならないようです。G君はその“努力”をしてきていたように見えていました。

     17歳でもう大学生か?ええ、フィリピンの学制では小学校6年間、高校4年間、カレッジ4年間以上となっています。日本の中学校に当たるものはありません。普通には、6歳で小学校に入りますから、高校を卒業するときはほとんどの生徒がまだ16歳です。
     G君も16歳でカレッジに進みました。
     出会ったとき、G君が描いていた人生コースは、しばらくはゴルフ練習場で働きながら家計を助ける一方、カレッジで(会計学などを)学びながら過ごし、最終的には空軍士官学校を受験し、将来は空軍の将校になる−−というものでした。
     競争が激しく、入学がすこぶる難しい軍の士官学校に進むことを考えたのは、入学できれば、学費を払う必要がないばかりか、毎月いくらかの手当てが支給されるからでした。外国との戦争が起こらない限り、空軍は比較的に安全な“就職先”でもあります。定年退職後の年金も悪くはないはずです。

     ええ。G君の家庭は裕福ではありません。両親と息子2人、娘1人の5人家族で、子供たちも働いてやっと家計を立てるという暮らしぶりのようでした。
     フィリピンではよくあることのようですが、G君の両親は互いにまだ十代のときに結婚しました。すぐに子供たちが生まれ−−。

     G君の父親は、おなじゴルフ場でキャディーとして働いています。
     尋ねた相手によって答えは違っていますが、このゴルフ場では200人以上がキャディーとして働いているようです。客数の多少にもよりますが、あるキャディーが仕事につけるのは一週間に二度か三度だそうです。一度だけということも少なくないようです。
     ゴルフ場が客にチャージするキャディー使用料金は(たぶん)250ペソ(1ペソ=2円)。これだけでは、ひと月の収入は(よくても)3,000ペソほどにしかなりません。
     キャディーはゴルファーからもらうティップに頼るところが大きいのですが、これも一人当たり250ペソから500ペソというところだと思えます。運がいい月でも、6,000ペソ程度でしょう。
     ですから、一人のキャディーの月収は、その両方を合わせても、10,000ペソにはなかなかなりません。
     しかも、悪いことに、G君の父親は脚に病があるために、週に一度か二度しか働けません。5,000ペソから7,000ペソといったところが月収ではないかと思われます。

     信用できる調査会社によると(調査した時期によって上下はしますが)マニラ首都圏の平均的(5人)家族が<何とか暮らしていける>と感じる月収は12,000ペソだということでした。G君の家庭では子供たちも働かなければ、その“平均的”なところに収入が届かない状態だったわけです。

     このゴルフ練習場では、ボール40個(一ケース)を30ペソで打たせてくれます。それだけのサーヴィスに対して、G君などのアテンダントは20ペソの料金をもらうようになっています。わたしが見るところでは、ゴルファー一人の平均練習ケース数は4ぐらいですから、アテンダントは、客一人につき80ペソほどを稼いでいるのではないでしょうか。
     登録しているアテンダントは200人ほどのようです。1人のアテンダントが一日につける客の数は(これも一定してはいませんが)2人か3人のはずです。一日300ペソにはめったにならないように見えます。一か月に20日働いて、収入5,000ペソ程度。その辺りが平均的なところだと思われます。

     アルバイトの学生で、半日だけしか働けなければ、収入は当然少なくなります。
     この練習場で、G君だけでなく、彼の兄(J君)もアテンダントとして働いていました。
     G君にとって、このJ君は“自慢の兄”で、J君は学校では数学と英語の成績が抜群でした。実は、その成績優秀のJ君が描いた人生コースがあの「空軍将校になる」というものでした。G君は兄とおなじコースを生きたいと考えていたのです。
     G君も受けた昨年度の入学試験では兄のJ君だけが合格しました。ルソン島中部の山中にある都市バギオにある空軍士官学校に晴れて進んだ兄J君を送り出したあと、G君は、それまで同様の暮らしをつづけながら、次回の試験に挑むことにしています。
     
     J君が士官学校に受け入れられたという事実はG君家族にとっては(財政的な助けになるだけではなく)実に誇らしいことでした。しかも、授業・講義が始まってみると、J君が格別に成績優秀な士官候補生であることが分かりました。G君によると、アメリカの(G君がいうには)陸軍士官学校(ウェストポイント)へ留学できるかもしれない上位24人の中に入っているだけではなく、その中でも上から数番目というところにつけているということです。
     バギオの士官学校では、一学年が8中隊に分かれていて、各中隊の成績上位3人がウェストポイントへの留学候補生として総合成績を競い合います。この中から、各学年2人が最終的にアメリカに行くことになるということです。
     <ウェストポイント帰り>はエリート中のエリートですから、通常は、その後、軍内で急速に昇進していきます。
     G君の兄J君はその出世コースもまったくの夢ではないところにいまつけているわけです。

     G君の家族は数週間前に、4人そろってバギオのJ君を訪ねました。手当てを受け取ることになったJ君が招待したのだと思います。わたしが知る限りでは、G君の家族が親類たちと顔を合わせるための里帰り以外の旅行をそろってしたというのはこれが初めてです。
     両親が若くして結婚してから20年近く。全員で力を合わせながら生きてきたG君家族に明るい未来が見え始めています。
     友人のわたしにも嬉しいニュースです。

     ただ−−。前回会ったとき、G君は言いました。「ただ、兄と同学年の、ウェストポイント行きの候補生の中に、もし、将軍の息子などが入っていたら、兄みたいな、何のコネもない者に勝ち目はまったくないようです。それが現実のようです」
     
     来年の春にG君はまた空軍士官学校を受験します。
     ゴルフ練習場で黙々とボールを置いてくれる少年や少女たちの一人の背後にそんな話がありました。
     G君が合格すれば、彼の家族みんなを、マニラのレストランでの食事に招待する、と伝えてあります。ほかには何といってできることがありませんから、せめてそんなふうに祝ってやりたいと思っています。