<ステアク・エッセイ>第31回として発表したものに少し手を加えてここに再掲載します。
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手元に12〜3年前(1990年代の初めごろ)に買ったペイパーバックがあります。法廷推理小説<REASONABLE DOUBT> Philip Friedman (IVY Book)です。アメリカで買った本を、長い年月のあと―フィリピンに移ってからでも―まだ持っているのは、その本がよほど好きだからなのだろう、と思いますか?
実は、この本を日本語訳した文庫本も併せて持っているのですよ(この再掲載版では、その出版社と翻訳者の名は伏せておくことにしました)。
でも、「ああ、やっぱり、すごく好きなんだ」とは思わないでください。
わたしはこの両方を<翻訳とはどういう仕事なのか>を考えるための材料としてずっと手元に置いてきただけだからです。<翻訳とは難しい仕事なのだ>ということをいつでも思い出させてもらうために、捨てずにこれまで持ちつづけてきただけだからです。
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1980年代の終わりから90年代の初めにかけて、わたしはロサンジェルスの日系新聞「加州毎日」で記者・編集員・論説員として働きました。そこでわたしが日々やらなければならなかったことの一つが、通信社APやUPIなどから送られてくる記事の中から、「加毎」にふさわしいと思われるニュースを選んで翻訳・抄訳し、英語で情報を得るのが苦手な地域日系・日本人のために日本語の記事にするという仕事でした。
ええ、「翻訳」がわたしの仕事の大きな部分を占めていたのです。
その仕事の中で、わたし自身、あとで自分の誤訳に気づかせられ、何度も恥ずかしい思いをしたとことがあります。
「手を抜くな」「あまく見るな」「あれ?と感じたら原文に戻って考えなおせ」などと、いつも自分に言いつづけていたにもかかわらず……。
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<REASONABLE DOUBT>を読んだのは英語本の方が先でした。翻訳本はあとでリトル東京の日本書籍の店で偶然見つけ、<どんな日本語になっているのだろう?>という単純な興味から買ったものです。
その日本語版を読んで、わたしは驚いてしまいました。「こんな本が堂々と出版されていていいのだろうか」と思いました。
まず、日本語そのものが拙い、と感じました。
どうかと思われる訳の展示場とでもいえるほどに、誤訳・悪訳にあふれていました。
<Andy、だいじょうぶか?そんなに大胆なことを公言して?>
大きな間違いから見てみましょうか。たとえば、次の文……。
The executive committee at Pane, Parish came within two votes of recommending that Ryan take an indefinite leave of absence from the firm if he was going to defend Jennifer.
この小説の筋が分かっていなくてもこの文は訳すことができますが、まず、それが分かっているはずの訳者の日本語はこうです。
ペイン・パリッシュ法律事務所の役員会の議決は、たった二票差で、もしライアンがジェニファーの弁護を担当するのであれば、ライアンは法律事務所から期限を切らない休暇を取るよう勧告する、と出た。
わたしなら、たとえば、こう訳します。「ペイン・パリッシュ法律事務所の役員会では<もしライアンがジェニファーの弁護をすることになれば、彼には無期限の休暇を取らせることにする>という勧告があと二票あればまとまるところだった」
<勧告は出ていない>のです。ライアンにとって幸いなことに<票が二票不足していた>のです。
ライアンが(無理に休暇を取らせられることなく)なんとしてもその法律事務所を代表してジェニファーの弁護がやりたかったことは、あとで
<…but Pane, Parish was his home>
という個所で分かりますし、彼が、そんな勧告が出なかったこと―僅差の勝利―に安堵していることも、そのすぐあとの
<Ryan was relieved to have his narrow victory…>
という文で明らかです。<勧告>が出なかったことが<彼の僅差の勝利>なのです。
もちろん、つづくストーリーの中でも、ライアンは(休暇を取らせられることなく)<Pene, Parish法律事務所>の弁護士として、ちゃんとジェニファーの弁護をやっています。
注意深く読み返していれば、この矛盾に(編集者も)翻訳者も気づいたはずなのですが……。
次に、これはどうでしょう?
Food was out of the question; he made himself a pot of strong coffee.
日本語訳はこうなっています。
食物が喉を通らなかった。濃いコーヒーをポットに一杯沸かした。
この訳だと、彼(ライアン)はいちおう、自分で食事の用意をして、何かをいったんは口に入れてみた、というように読めます。
ですが、原文にば、ライアンが何かを調理したとは書いてありません。
実際、ジェニファーの弁護ができるかどうかを決める重要な口頭意見陳述を行なわなければならない日の朝のことで、緊張しきっているライアンは、食事どころではないのです。コーヒー以外は何も口に入れることができないのです。
ですから、ここは「(いまの自分に)何かが食べられるとは(とうてい)思えなかった(あるいは、何かを食べようなどとは思いつきもしなかった)。彼は自分で濃いコーヒーをポット一杯分いれた」とでもなるべきところなのです。
この日本語版の<拙い訳>の中には<辞書をひいてさえいればこんなことにはなっていなかっただろうに>というものがたくさんあります。一例として
He used the temporary I.D. Miller had arranged for him so he did not have to be announced every time he visited her.
を見てみましょう。訳はこうです。
訪問するたびに自分の名前を声高に告げられるのを防ぐため、ミラーが手配してくれた仮身分証明カードを見せて通った。
おかしいと感じませんか?<He>というのはライアン(弁護士)です。<Miller>は彼の相棒になるかもしれない女性弁護士で、二人はミラーの法律事務所内のオフィスで会うことにしていました。
問題は<announced>です。そこを訳者は「声高に告げられる」としています。
…そんなばかな!来訪者があるたびに「XXさん、ご来社!」などと声高に告げる会社がどこかにありますか?しかも、ここは法律事務所なのですよ。
さあ、辞書をひいてみましょう。旺文社の「英和中辞典」には<announce guests>という例があって、それに「客の来訪を取り次ぐ」という説明がついています。
つまり、ここは<いちいち身元を照会する手間をかけずに彼女のオフィスに入ることができるようにミラーが仮の身分証明カードを作っておいてくれたから、ライアンはそれを使った>と言っているわけです。
訳者はここでたぶん「あれ?」と感じたに違いありません。ですが、きっと「まあいいか。時間もないし」などと、辞書を開いて見ることなしに通過してしまったのでしょう。危険な落とし穴です。
翻訳者は大阪大学大学院英文学修士課程を修了している<英米文学翻訳家>だそうです。それぐらいの“看板”があればだれでも翻訳家になることができる、ということでしょうか?
いえ、そのような皮肉がふさわしいぐらいこの日本語版はひどいのです。
こんな翻訳の本を出している出版社にも問題があります。出版社は、こんなに質が悪い翻訳本を出していたら読書好きが減ってしまう、というような危機感を抱くべきです。危機感を抱く程度の知性を持っているべきです。
もしかしたら、いくらかは持っていて、この翻訳本をすでに絶版にしているでしょうか?そう願いたいところです。
そういうことですから、翻訳本を読んで「どうも分かりにくいな」と感じることがあっても「オレ、ひょっとして頭が悪いんじゃないか」「やっぱり年を取ってきたのかな」などと思う必要はありません。そんなときは、まあ、80パーセントぐらいの確率で<翻訳が悪い!>のです。
だいたい、そんなに意味がとりにくい本が、原語でベストセラーになったりするわけがないではありませんか。日本語版がおかしいのです。
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