第33回 改題再掲載 翻訳はホントウニ難しい!! (3)

  前回のつづきです。
  やはり<上級篇>ですね、これも。

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  さて、原文(の単語など)を勝手に変えて翻訳する…。
  古いところでは、日本の古代史学界がありますね。多くの学者が、自分の解釈に合わなければ「魏志倭人伝」でも何でも<ここは、日本にやって来た中国人が勘違いするか、間違ったことを意図的に言ったもので、信用できない>などといって、勝手に原文を変えていましたよね。
  さて、「REASONABLE DOUBT 合理的な疑い」(日本語訳本の出版社と翻訳者の名はここでも伏せておきます)。
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  弁護士ライアンの(殺された)息子(ネッド)の妻(義理の娘 ジェニファー)を被告とする裁判で、陪審員選考が始まる直前に次のシーンがあります(ペイパーバック P.211)。

  Now, about to step into lion’s den, Ryan turned to Miller, who was
having murmured consultation with Sisley.
  “Ready?”
  “When you are, C.B.
   He looked at her.
  “Never mind,” she said, “Old joke.”
  日本語訳ではこうです。
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  そして今、ライオンの巣に足を踏み入れる直前に、ライアンは、シスリイと小声で相談していたミラーの方を向いた。
  「いいか?」
  「いつでもどうぞ、クラレンス(C)・ダロウ(D)」
  ライアンはミラーをまじまじと見た
  「いいんです。古い冗談」
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  原文ではただの<C・B>でした。翻訳ではそれが<C・D>と書き換えられています。書き換えられただけでなく、それが<C・D>というルビつきの<クラレンス・ダロウ>という日本語になっているのです。
  前回に触れた“アクロバットか手品のように想像力を使った翻訳”の見本だといえますね。
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  ところで、この<クラレンス・ダロウ>は、ストーリーの前の方で、その名前が(現実に)出てきています。殺された息子の妻(夫殺しの容疑者 ジェニファー)の弁護人であるライアンが共同弁護人のミラーに向かって<わたしはクラレンス・ダロウほど立派な法律家ではない>という意味の発言をしていました(ペイパーバック P.65)。
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  “(略)Not because I’m Clarence Darrow.”(検察官が僕には弁護資格がないと主張しているのは)「僕がクラレンス・ダロウ(みたいに腕のいい弁護人)だからというわけじゃないんだ」
  There was something odd in her expression. ミラーがちょっと変な表情を見せた。
  “I say something wrong?” 「何かおかしなことを、僕、言った?」
  “Not relevant. I’ll tell you someday, maybe. So you’re not Clarence Darrow.” 「どうということじゃありません。いつか話しますよ、たぶん。…で、あなたはクラレンス・ダロウじゃないわけだ」
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  陪審員選考手続き開始の直前の場面に戻ると…。
  長年の空白があったあと、ライアンは久々に法廷に出ようとしています。怖じ気づきそうになっています。そんなライアンを(法曹界では知らない者がいないほど著名な名法律家であるらしい)<クラレンス・ダロウ>と、ミラーが呼んだ?
  「いつでもどうぞ、クラレンス(C)・ダロウ(D)」ですって?
  呼べば、それはひどく辛らつな皮肉になってしまいます。
  もしミラーがそう言ったとしたら、ライアンはその毒気を不快に思うはずです。「まじまじと見た」程度の反応ですませてはいなかったはずです。
  「いいんです。古い冗談」では片づかなかったはずです。実際に「冗談」にもなっていません。
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  もう一度英文を見てください。
  Now, about to step into lion’s den, Ryan turned to Miller, who was having murmured consultation with Sisley. (恐ろしい敵の陣地に足を踏み入れるときが来ていた。シスリーと小声で話し合っていたミラーにライアンは顔を向けた)
  “Ready?”(「いつでもいける」?)
  “When you are, C.B.”(「そちらがいけるのなら、<C・B 外科医学士>どの」)
   He looked at her. (ライアンは彼女を見やった)
  “Never mind,” she said, “Old joke.”(「気にしないでください」。彼女は言った。「ふるいジョウクですから」)
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  原文にはその「まじまじと」に当たる単語さえありません。ただ<LOOKED
AT HER>(見る・眺める)とあるだけです。
  いきなり<C・B 外科医学士>と呼ばれて、ミラーに何を言われたのかがライアンには分からなかったのです。だから<おかしなことを言う女だ>というような視戦を彼女に向けただけだったのです。
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  訳者は<C・B>を勝手に<C・D>に変えたばかりに、原文にはない「まじまじと」をつけ加える必要に迫られたわけですね。そうでもしないと筋が通らないと感じたのですね。間違いに新たな間違いを重ねた典型的な例といえます。
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  ところで、この<C・B>については、実は、わたしにも見当がつきません。辞書をひいて、これはラテン語からきている<外科医学士>ではないかと想像しているだけなのです
  ですが、もしそうなら……。
  まだ正式の医者ではない<外科医学士>が(何らかの事情で自分が執刀することになった)手術の前に周囲の助手たちに「用意はできていますか(Ready)?」と(恐る恐る)尋ねたのに対して、(経験豊富な)助手の一人かだれかが「そちらがおできになっているのなら(当然こちらはいつでも)、医学士どの(C・B)」などと(軽く)からかったという情景が見えないこともありません。
  法廷に再び出ることに怖気づいているライアンと、初めて手術に臨む<外科医学士>の心境には近いものがあるのではないか、と考えたミラーはライアンを(からかい半分で)<C・B>と呼んだかもしれない、と思えないこともありません。
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  そういうふうにとれば、ミラーが「忘れてください(場違いなことを言ってしまいました)。古い(使い古された)冗談です」と言ってすませることもできたかもしれない、とも思えます。
  いえ、この解釈も間違っている可能性の方が大きいのですよ。でも、少なくとも、ここでは“勝手な書き換え”はやっていません
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  そのクラレンス・ダロウの名がもう一度話題になる場面があとの方にあります(ペイパーバック P.233)。
  陪審員の選考を終えたあとです。(まだ過度に緊張している)ライアンには、裁判が本格審理に入る前に気分転換が必要だと考えたミラーが彼をピクニックに連れ出します。持ってきた料理を食べるころになって、ライアンが切り出します。
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  「きみのことを話してくれ」
  それにつづく英文と文庫本の日本語訳を見ましょう。
  "(略)Give me a place to start."
"Clarence Darrow."
"You remember that?"
"Maybe I'm full of surprise, too." (略)
"Okay. Clarence Darrow. That's my dad's name. It embarrassed him. C.D. Miller is all he ever goes by. (略)"
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  「(略)…どこから始めましょうか」
  「クラレンス・ダロウ」
  「憶えていらしたの?」
  「わたしもいろいろと意外なところを持っているのかもしれん」(略)
  「いいわ、クラレンス・ダロウ。偶然にも父の名前もクラレンス・ダロウなんです。その名前が父には恥ずかしくて。C・D・ミラーという名前しか使いません(略)」
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  問題は「いいわクラレンス・ダロウ」という書き方です。これでは、訳者が<C・B>を<C・D>に変えたときと同様に<ミラーはここでもライアンをクラレンス・ダロウと呼んでいる>ことになってしまいます。
  ところが、訳者にここで「いいわクラレンス・ダロウ」とここで訳させる元になっていた「いつでもどうぞ、C・D」という言葉(P.211)が、そもそも、原文にはありませんでしたね。<C・D>ではなく<C・B>でしたね。
  ですから、ここでミラーがライアンのことを「クラレンス・ダロウ」と呼ぶことも、当然、ありえません。
  それに、ライアンは「きみのことを話してくれ」と言ったのですよ。そのライアンが<じゃあ、クラレンス・ダロウのことから聞かせてくれ>と言ったとは、やはり、思えません。訳者が言うところに従えば、クラレンス・ダロウは自分=ライアンを指しているわけですから。<きみのこと>ではないのですから
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  ライアンが<クラレンス・ダロウ>の名前を覚えていたことに驚いたミラーは「憶えていらしたの?」と言いました。
  ライアンが覚えていたのは、もちろん、彼が以前に事実上<わたしはクラレンス・ダロウほど立派な法律家ではない>と言ったときに、ミラーがみょうな表情を見せた(There was something odd in her expression.)からでした
  「(そのことについては)いつか話します。たぶん(I’ll tell you someday, maybe.)」とミラーが言っていたからです。
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  訳者は(ここでも)完全に間違っています。
  訳者は前(P.211)の間違いをそのまま引きずっていて、ここ(P.233)で再び間違えているわけです。
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  「いいわ、クラレンス・ダロウ」の原文はどうなっているでしょう?もう一度みてみましょう。
  “Okay. Clarence Darrow. That’s my dad’s name.”
  <Okay>と<Clarence Darrow>は句点(ピアリアッド)で区切られています。つまり、訳は「いいわクラレンス・ダロウ」ではなくて「分かりました(あのときわたしが、その名前を聞いて、みょうな表情を見せた、それについてはいつか話しますと言った)あのクラレンス・ダロウのことからですね」というふうになっていないといけないのです。
  そのあとに「(実は)父の名前もクラレンス・ダロウなんです(だから、わたし、あなたがその名前を出したとき、ちょっと変な表情になったんです)。(その名前があまりに有名な弁護士と同じなので)父は恥ずかしがって、C・D・ミラーというふうにしか自分を名乗りませんでした(略)」という説明がつづくわけです。
  それで話がちゃんとつながります。
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  原文の<.>を勝手に<,>に変えてもいけない、ということです。
  変えると、やはり、訳を間違えるのです。つじつまを合わせようとして、「偶然にも」などという、原文にはない言葉をつけ加えなくてはならなくなったりもするのです。
               *
  「うーん。ここはわたしの解釈と合わないから、植字かタイプのミスということにしとこう。…それでも足りないから、原文にない単語も加えとこうかな」などというのは、かつての日本の古代史学界なみのずさんさです。
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  翻訳というのは本当に難しい仕事です。怖い仕事です。
  必ずどこかで間違ってしまうからです。
  その間違いをどれだけ少なくできるかで、大方、いい翻訳者かどうかが決まる、とわたしは思っています。
  <大方>というのは、ほら、日本語そのものにも<良し悪し>があるからです。間違いが少なくて日本語もきれいな翻訳本を訳者に望みたいではありませんか。
  
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