第215回 モニュメント・ヴァレーで見た破顔一笑

  大リーグのロサンジェルスドジャースの実況放送アナウンサー、ヴィン・スカリー氏(1927年生まれ)は、ティームがまだニューヨーク市のブルックリンにあったころ(1950年)にその仕事を始めているそうですから、その専属アナウンサー歴は(信じられますか?)60年以上ということになります。そのスカリー氏が最近、2012年のシーズンも、ドジャースの西地区内での試合では実況放送を担当する意思を明らかにしました。このティームが調子を落とし、惨憺たるシーズンを送っているときでも、スカリー氏の広範な知識や薀蓄、実に滑らかな語り口に耳を傾けるのが楽しみでテレヴィの前に座り、ラディオのスイッチを入れるのだという数多くのファンにとっては実に喜ばしいニュースです。
  マニラのケイブテレヴィででも今年のシーズン中にドジャースの試合が10試合以上は見られましたし、そのうちの半分以上でスカリー氏の声を聞くことができました。このケイブテレヴィとスポーツネットワークなどとの契約内容しだいなのでしょうが、来シーズンも、少なくとも数試合で、スカリー氏の熟達した名調子を楽しむことができるのではないかと期待しています。
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  日本から訪ねてきた兄と2006年の春に、デス・ヴァレー〜レイク・タホ〜リノ〜ソルトレイクシティーデンヴァー〜アーチズ国立公園〜モニュメント・ヴァレーなどを回る3600マイル(5700キロメーター)のドライヴ旅行を楽しみました。そのモニュメント・ヴァレーでの話です。
  自分の車で谷に下り、下から見上げる角度で景観を楽しむことにしました。途中では、おなじ方向に進む旅行者たちと、いくつかのヴューポイントで何度か顔を合わせることになりました。その中に、30代の半ばと見られる、一人旅の男性がいました。…この男性は例外でした。つまり、何度か行き会って、視線も交し合っているのに、笑顔さえ見せないのです。一人旅。何か訳ありの旅なのだろう、と思うしかありませんでした。
  この男性と、ある場所で偶然に、身近にすれちがうことになってしまいました。ふと、声をかける気になりました。知らん振り、気づかぬ振りをつづけるのがかえって不自然に思えたからです。「どこからですか?」
  「カナダのモントリオール」。無愛想な見かけどおりの、ぶっきらぼうな答えでした。
  いまはワシントンDCに移ってナショナルズと名乗っている球団がまだケベック州モントリオール市を本拠地とするエクスポスだったころに、スカリー氏が「イッツ・タイム・フォー・ドジャー・ベイスボール!」「きょうは(カタカナで表記するのは難しいのですが)モンレアーからお伝えします」という具合に実況放送を始めていたのを咄嗟に思い出しました。モンレアーというのは、モントリオールのフランス語ふうの発音です。スカリー氏がそうしていたのは、モントリオールの人口の三分の二以上がフランス系で、彼らが旧母国の言語を今日でもすごく大事に思っていることを熟知していたからです。
  「ああ、モンレアーからですか!」
  スカリー氏の口真似は思い以上の功を奏しました。破顔一笑!男性の顔に急に大きな笑顔が浮かんだのです。東北アジア人と見える男が、考えもしなかったことに、男性が住んでいる都市の名を、男性が愛する言語ふうに発音したことを驚き喜んでのことだったに違いありません。
  カナダ人旅人とわたしの会話の内容は漠然としか聞き取れていなかったはずの兄の顔にも大きな笑みがありました。
  スカリー氏のおかげで、通りすがりにも等しいカナダ人男性とのあいだにほのぼのとした国際親善が果たせた一瞬でした。