<殺人や誘拐、死亡交通事故などの重大事件・事故で、被害者や遺族が加害者の裁判にかかわる「被害者参加制度」が始まった。1日以降に起訴された事件が対象となる>
<ドイツやフランスなどで同様の制度が導入されている>
<被害者は、法廷で検察官の隣に座り、被告や証人に質問できる。検察官が求刑した後、被害者も被告の量刑について意見を述べることが可能になった>
(2008年12月2日 読売新聞社説)
<刑事裁判への「被害者参加制度」に基づき、参加を申し出ていた交通事故の被害者女性について、釧路地裁の阿閉(あつじ)正則裁判官は12日、参加を認める決定をした>
<1日から始まった同制度で被害者の参加が認められたのは全国で初めて>
(2008年12月12日 読売新聞)
裁判への「被害者参加制度」が始動しました。
大多数の国民がほとんど関心を抱いていない状態で。
多くの被害者の家族や友人などが、
死亡した被害者(たち)の遺影を抱えて裁判傍聴に駆けつける姿がこれまでもよく見られた、
遺族たちが自分たちの悔しさや恨みなどを遺影の助けを借りて加害者(被告)にぶつけようとしてきた、
被害者やその家族たちが加害者に対して「土下座して謝れ」などと言うことも珍しくない、
法による裁きだけでは不足だと感じる被害者(家族)が多い、
被害者(家族)が事件にかかわる“感情”面をことさら重視する傾向にある
日本で、この制度は、一部の犯罪被害者(家族)などが望んだとおりに機能するのでしょうか?
<被害者は、法廷で検察官の隣に座り、被告や証人に質問できる>そうですが、いったい何を質問することになるのでしょうか?
事件の事実関係は、当然、検察が明らかにするよう努めるでしょうから、被害者(家族)は犯行当時の加害者(被告)の“心”の状況や法廷での“いまの心境(後悔・反省・謝意)”などについて尋ねるのでしょうね?
尋ねて、「悪かった」「気の毒なことをしてしまった」「家族には計り知れない悲しみを与えて申し訳ない」などといった言葉を聞いて、自分たちの心を慰めたいのでしょうね?
そうだとしたら……。
もし、加害者(被告)が謝らなかったら?
加害者(被告)が居直って被害者とその家族をなじったら?
被害者(家族)は心をずいぶん傷つけられるでしょうね。
加害者(被告)が十分に反省していないと感じたら、被害者(家族)は<被害者も被告の量刑について意見を述べることが可能になった>ことを利用して、いっそう重い刑を求めるのでしょうか?
“報復”という、現代法になじまない言葉を思い起こします。
でも、そうすることで被害者(家族)は癒されることになるのでしょうか?
ちょっと怖いのは……。
被害者(家族)がもっと重い刑を求め、それが認められたために、より長い(たとえば)懲役刑を科せられた加害者が被害者(家族)に恨みを抱き、出所後に被害者(家族)に危害を加えようとすることがありはしないか、ということです。
そんなことは絶対に起こらない、と言い切れますか?
もっと怖いのは……。
裁判中は、被告はいちおう“無罪”であると想定されてるわけですよね。
ですが、被害者(家族)は(たぶん検察官以上に)被告を“有罪”だと決め込んで法廷に出ることになるでしょう。
その被害者(家族)の被告に対する発言・質問・問い詰めなどが、特に、新たに導入される<裁判員>にどう受け取られるのか……。
被害者(家族)が抱いている(かもしれない)“偏見”に<裁判員>が意見を左右されることはないのか……。
いちばん怖いのは……。
加害者とされた人物に(万が一にも)“無罪”判決が下されたら、ということではないでしょうか?
日本での刑事事件の捜査は被疑者の自白を得ることを中心に行われているようです。この自白偏重はしばしば、警察・検察による誤認逮捕や冤罪の原因にもなってきました。これからはない、と断言することはできるでしょうか?
“無罪”判決に対して、“有罪”を前提として法廷で被告と相対した被害者(家族)はどう反応したらいいのでしょう?
これまでどおりに、事実関係を争って、法が定めるところに従って(感情をできるだけ排して)判決を下し、量刑を決めるだけで十分なのではないでしょうか?
日本の裁判ではこれまでも、裁判官が“情状酌量”に自らの“感情”をかなり投入して、判決を下してきているのですから。
被害者(家族)の“心”の問題は法廷外で対処されるべきではないでしょうか?
ところで、この裁判の結果を後の(慰謝料などを求める)民事裁判で使うことができることにもなるそうですね。
刑事裁判に“感情”が入りこむ隙をできるだけ小さくしておかないと、それに付随する民事裁判もすきっきりとは展開しないことになるでしょう。
とにかく、裁判にいたずらに“感情”が差し挟まれる恐れが高い「被害者参加制度」には大きな欠陥があるように思えます。