再掲載:2010-07-22 第165回 それでも誤訳は避けられない

 

  福岡の兄の本棚に翻訳本「12番目のカード」ジェフリー・ディーヴァー池田真紀子訳 文芸春秋社)があるのを見つけ、兄の許しを得てマニラに持ち帰りました。昨年の秋のことです。「12番目のカード」は含まれていなかったのですが、この作家の小説は以前にペイパーバックで何冊か読んでいたもので("THE DEVIL'S TEARDROP" "THE STONE MONKEY" "THE VANISHED MAN"など)親しみもあって、<日本語訳ではどうなっているのだろう?>という興味がわいたからでした。
  いえ、正直に言いますと、翻訳本については以前にすこぶる劣悪なものに出合ったことがあったことも動機になっていました。<これはどうなんだろう?><ちゃんと訳されているんだろうか?>
  *http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081204/1228353415
  *http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081205/1228437531
  *http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081206/1228539414
  *http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081207/1228610086


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  嬉しかったことには、日本語訳を一度だけ読み通したところでは<まさかそんな!>というような、格別におかしな個所には行き当たりませんでした。つまり、大きな誤訳はなさそうだったということです。というより、犯罪の秘密を科学的な推理と捜査で解き明かしていくところが“売り”になっているこの小説には、専門語があふれているし、略語や俗語も数多く使用されていますから、その日本語訳は容易ではないと思われるのですが、できあがり具合は“なかなかのもの”になっているようでした。
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  さて、マカティ市内の古本屋で先日、この小説の英語版ペイパーバック(POCKET STAR BOOKS)を買い求めました。
  英語版を読んだあとの感想も、池田氏の日本語訳はおおむね“優”と評されていいようだ、というものでした。いえ、わたし自身はほとんど翻訳本を読みませんから、ほかとの幅広い比較はできませんが、池田氏の翻訳力は<標準以上>のものではないかと思ったのです。
  英語版と読み比べて<間違い>あるいは<拙訳>だと感じたのは、たとえば、つぎのような個所にとどまりました。ストーリーの展開を歪めるほどのものではありません。
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  <築年数のたった建物も修繕が行き届いている。車のステアリングホイールはやはり盗難防止のバーで固定されているかもしれないが、鉄格子で守られた自家用車のなかには、<レクサス>や<BMW>の高級車も見えた>(105ペイジ)
  この部分の英語版は−−
  The rows of old buildings were in good repair. The cars may have sported Club on the steering wheels but the vehicles the steel bars protected included Lexuses and Beemers.(P108)
  上の日本語訳の中でよく分からないのは<鉄格子で守られた>です。
  さて、Clubは<盗難防止のバー>と正しく訳されています。これは、日本の時代劇で見る<十手>を太く強くしたような鋼鉄製の器具で、1990年代半ばごろから、この小説の舞台であるニューヨーク市ハーレムのような自動車の盗難が多い地区だけではなく、全米で広く使われ始めていました。窃盗者が車に侵入してエンジンをかけても、このClubがハンドル=ステアリングホイールにつけてあれば、それが邪魔になって運転ができないわけです。
  つまり、ここで<鉄格子>と訳されたthe steel barsというのは、実はこのClubのことなのです。
  ですから、ここで言われているのは−−
  <建物も修繕が行き届いている>ことからも推察できるように、ハーレムのこの一角は、ほかと比較すれば裕福な住人が多く、治安も悪くはなくて、盗まれまいとClubをつけた自動車もあるにはあるが、つけた車の中には(ハーレムのほかの地域ではあまり見られない高級車である)<レクサス>や<BMW>も含まれている−−ということです。
  <鉄格子で守られた自家用車>などというおかしなものはここにはないのです。the steel barsがClubのことだと分かっていれば、唐突に<鉄格子>が出てくることはなかったはずです。
  −
  このClubに関しては、もう一個所でおかしな訳が見られます(146ペイジ)。
  昔の日本では、子どもたちが「お前の母さん出べそ」などと、たがいにひどいことを言い合ったりしたものですが、ハーレムの若者たちのあいだにも<スナッピング>と呼ばれる、似たような“遊び”があるそうです。
  英語文ではこんな例が挙げられています。
  Yo' mama so fat her blood type is Ragu, Yo' Chevy so old they stole the Club and left the car.(P149)
  日本語訳は−−
  “あんたのママはデブ、血液型は<ラグー>(スパゲティソースの商品名)”“あんたの<シェヴィ>はおんぼろ、泥棒だって店は盗んでも車は盗まない(<シェヴィ>という名のレストランチェーンがある)”(146ペイジ)。

 

  <シェヴィ>という名のレストランチェーンがある、という事実をわたしは知りません。
  ここで問題なのはthe Clubがまったく無視されていることです。無視したために、英語にはない<レストランチェーン>まで持ち出すことになってしまったということです。
  まず<シェヴィ>というのはジェネラル・モーターズが販売している“低級車”です。the Clubというのは、あのthe steel barsのことです。
  つまり、ここでは「あんたの車は低級車の<シェヴィ>で、しかもおんぼろ。車を盗まれないようにとクラブをつけているが、あんたの車にはクラブほどの値打ちさえないから、泥棒は(40〜50ドルほどで買うことができる)クラブは盗んでいっても車は置いていく」と相手をばかにする、と言っているわけです。
  完全な誤訳ですね。
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  優秀だと見える翻訳にも上のような間違いが起こりえます。
  翻訳というのは、ほんとうに、難しい仕事です。
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  ところで、これは翻訳とは関係のないことですが−−
  英語版にも日本語版にも、その表紙には「12番目のタロットカード」が描かれています。いずれも、絞首刑台の梁ようなものから一人の男が逆さに吊り下げられている構図ですが、英語版では二本の脚が、日本語版では一本の脚が縛られています。常識的には、英語版の方が原文に忠実な絵になっているだろうと考えるところですが、わたしが気づいた限りでは、縛られた脚は一本(LEGSではなくてLEG)だと書かれていました。日本語版の表紙の絵の方が正しいわけですね。