--1990年5月9日-- 明治の記憶   加州毎日新聞「時事往来」 -196-

 =加州毎日新聞(California Daily News)は1931年から1992年までロサンジェルスで発行された日系新聞です=

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  父方の祖母が他界したのは四半世紀も前のことだ。七十二歳だったと思う。
  「だったと思う」というのは、それから過ぎた歳月の長さのせいばかりではない。明治も半ばに近い頃に田舎で生まれた人たちの戸籍が正確ではないというのは格別に珍しいことではなかったようだが、この祖母も自分が誕生した年を確実には知らなかったのだ。一月六日生まれだとはいうものの、その年が明治二十五年(一八九二)年だったか二十八(一八九五)年だったかは結局あやふやなまま、祖母は亡くなったのだった。
  祖母の親は、祖母が生まれたのは二十五年だったと言っていたらしい。だが、祖母が初めての子であるわたしの父を生んだ年、明治四十四(一九一一)年、<自分の年齢は十六歳だったはずだから(逆算すると)自分は二十八年生まれだったのかもしれない>というのが祖母自身の説明だった。
  祖母がすでに七十歳ぐらいになってから聞いた話だ。遠い昔の記憶が全体として薄れてかけていたとしても特に不思議ではなかった。だが、周囲の人たちから、お前は三つになった、五つになった、などと言われながら育ったに違いない祖母が長男を生んだときの自分の年齢を間違って記憶するということはあまりありそうにない。二十八年生まれ説の方が正しいように思う。生来は頭が良かったと思われる祖母に小学校教育もつけてやれなかった祖母の親が、どこかで思い違いをして、祖母に、お前は二十五年生まれだ、と伝えていたのかもしれない。

  祖母は現在の大分県中津市に生まれ、佐賀市に住んでいた祖父に嫁いだ。祖父が中津に出かけた際に知り合ったものらしい。
  その祖父はわたしが二歳にもならないころに亡くなっている。頭巾をかぶった赤ん坊のわたしが、黒いマントを着た祖父に抱かれて写っている写真が一枚、父の手元に残っている。
  わたしが物心ついた頃、家には、県庁勤務の父には似合わない物が二つあった。テレビや映画の時代劇の中で見るような大工の道具箱と、子供の目にはかなり大きく見えたレンズ数個だ。
  来年春には八十歳になる父から十数年前に聞いたところによると、父は幼い頃、父の祖父―私の曽祖父に当たる人―に手を引かれてよく、佐賀市内のあちこちのお屋敷に出かけたそうだ。大正の初めごろのことだ。曽祖父はそれぞれのお屋敷で、出入り大工として、家の手入れ・修理などをさせてもらっていたらしい。生家にあった大工の道具箱はもともとは曽祖父のものだったと思われる。
  だが、大工の倅だった祖父は、曽祖父と同じ職につくのが嫌いだったと見えて、佐賀市内の活動写真館で支配人、あるいはその手伝いのような仕事をしていたらしい。レンズは活動写真の映写機のものだということだった。

  祖母が、江藤新平の<佐賀の乱>の話を姑などから聞いたことがある、と言い出したことがあった。
  明治維新政府の司法卿となり、後に<征韓論>を主張して受け入れられず下野し、板垣退助らと民選議院設立の建白を行い、これも実らず、ついには故郷の佐賀で、主張実現のための武装蜂起を行ったのが江藤新平だ。


  明治七(一八七四)年の事件であり、祖母が佐賀に嫁いできた頃には、事件を直接体験した人たちが周囲にはいくらでもいたようだ。
  残念なことは、<乱>の歴史的な意味などにはまったく興味がなかった祖母の記憶が<戦火が火ぶたを切ると、佐賀の町は、家財道具を大八車に積んで逃げ惑う人々で大混雑となり、逃げ足の速い人たちはそのまま佐賀の東へ一里、二里、伊賀屋、神崎まで避難したということだ>といったところにとどまっていたことだ。
  教科書や歴史書、小説などから明治維新前後の様子や出来事を知る機会はそれまでにもいくらでもあった。だが、人づてに直接、明治初期の出来事の一こまを語り聞かせてもらったのはあのときが最初だった。―最後だった、ということにもなるだろう。

  福岡にいる父が達者なうちに、父が祖父などから聞いた昔話をもっと聞いておきたいと思うことがあるが、三度目のカリフォルニア旅行を誘っている最中の母からの手紙によると、父は「体力が衰えてきたし、外国旅行はもうつらい」などと、いささか弱音を吐いているらしい。