アメリカの学校では教わるのに日本の学校では教わらない決定的な“文章スキルの違い”

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第71回 「文章は<パラグラフ>を使って書くものだ!」  一般 2008/01/16  閲覧(421)

 

  「目から鱗が落ちる」という表現がありますね。
  わたしの場合は“あのとき”がまさにそれに当たっていました。

  カリフォルニア大学リヴァーサイド校(UCR)の外国人向けプログラムで英語を勉強したことがあります。1979年の秋から翌年の春までの2クォーター、計20週間、月曜日から金曜日まで、午前3時間、午後2時間の授業を毎日受けつづたのでした。
  33歳になってからの、改めての英語学習でした。
  第一日目、午前の授業を受け終わり、昼食をとるために寮のカフェテリアに戻る途中、3時間の授業中に懸命に耳を傾けつづけた先生たちの英語がすべて混じり合い、意味不明の言葉のかたまりとなって、頭の中で「わあん」とうなっていたことを、いまでもときどき(懐かしく)思い出します。

  グラマー、ヴォキャブラリー、リスニング、スピーキング、ライティング‐。
  英語を学習するのは事実上高校生のとき以来でした。学期が始まると、(わたしも含めて)日本人が「ここだけはなんとか!」と自負したがる文法、語彙の分野でも、力がずいぶん落ちていることにすぐに気づかせられました。大学受験英語のレヴェルから‐ということです。
  つまり、英語については、文法や語彙でさえ「ほとんど一からやり直し」という状況にあったわけです。
  ですから、当時、日本のほとんどの中学・高校で英語授業に含まれていなかったリスニングやスピーキングとなると!

  どの科目も、手を抜くことなく、一所懸命に学びました。
  先生たちに毎日、多くのことを教えてもらいました。
  秋の学期が始まって数週間過ぎたころには、図書館内で耳にする他人の雑談がなんとなくうるさいと感じられるようになりました。話される言葉の中の単語が一つ二つというぐあいに、少しずつ聞き取れるようになってきていたのです。
  2か月ほど経ったころには、通りがかりの人にいきなり"What time do you have?"と尋ねられても時間が答えられるようになっていました。自分がいつの間にかちゃんと答えていたことに気づいて(ひそかに)ずいぶん喜んだものです。
  耳(と脳)がそんなふうに英語に慣れていっていることが妙に不思議なことにも感じられました。

  UCRでの二学期間の授業のあと、わたしの英語力は(ありがたかったことに、渡米前に期待していたレヴェルを超えて)上達していました。
  いえ、現実にはまだ、マクドナルドでコーラを注文したのにコーヒーを渡されるとうようなことがしょっちゅうあったのですが。

  ‐というふうに、総じて充実していた授業の中に「これは予期せぬモウケモノだった!」といまでも格別に感謝しているものがあります。
  それって、やはり、日本ではまったく機会がなかったリスニングとスピーキングの時間では?
  いえ、実は、それは、自らが言語学の学生でもあったボビー・リトル先生の「作文法」の授業でした。
  これを習っただけでもUCRへの語学留学は十分に価値があった‐と固く信じています。

  この「作文法」を教えてもらうまでのライティングの授業では、いつもひどく困惑させれていました。新たに書いた文章を提出するたびに、リトル先生に「君はまだ日本語で考えているな!」と言われつづけていたからです。
  <日本語で考える>ということの意味がわかりませんでした。
  自分は他人よりはいくらかましな日本語を書いているのではないか‐と感じていたわたしは、リトル先生のその言葉で(それまで胸のうちにないことはなかった)自尊心をいくらか傷つけられもしていました。
  <日本語で考えていてはいい英文は書けない?>

  ある日リトル先生が切り出しました。「パラグラフ(節)という言葉を聞いたことがあるか、君たちは?論文やエッセイなどはそのパラグラフというものを基本にして書くものなのだ」

  それまでは、作文力というのは、先人が書いた質のいい文章を数多く読むことで身につけるものだ‐というぐあいに漠然と考えていたわたしには、体裁をつけていえば<実に新鮮な>、正直にいえば<とてつもなくショッキングな>説明でした。
  自然に「身につける」のではなく、文章に関するある考えに則る‐その型にはまる‐ことで良い文章を書くことができる?
  すこぶる“西欧的な”考えだと思いました。
  そんな“合理的な”作文方法があるということが不思議に思えました。
  ですが‐。

  当時のノートもテキストブックももう手元にはありませんから、記憶を頼りに、リトル先生の説明をできるだけ原型に近いように復元すると‐。

  *論文やエッセイでは、主張内容を明確に告げる<メイン・センテンス>を文頭に掲げる
   (たしかに、筆者の論点が明確でなかったら、読者は読む気にならないに違いありません)

  *論文やエッセイは<メイン・センテンス>で述べたことを論理的に補強するいくつかの<パラグラフ>で構成する
   (日本の作文法でいう<起・承・転・結>をそれぞれのパラグラフで表現する‐と受け取ってよさそうでした)

  *一つのパラグラフは原則として四つの要素で構成される

  1)このパラグラフの中で何を書くかを告げる<紹介文>(トピック・センテンス) 
  2)<トピック・センテンス>で告げたことを例や詳細な説明などを挙げて補強する<展開文>
  3)<トピック・センテンス>についての見解などを記す<視点文>
  4)そこまで述べてきたことを論理的に一貫するようにまとめ上げる<結論文>

  *2)から4)の<サポート・センテンス>はかならずしもすべて揃わなくてもいいが<トピック・センテンス>は不可欠だ

  *一つのパラグラフの中では一つの考えしか述べない。
   (日本で日本文を書いていたわたしが一度も考えたことがなかった、新鮮で‐実にもっともな‐コンセプトでした。これこそがパラグラフ作文法の核だと感じました)

  *ある一つのパラグラフで述べたものと異なる(矛盾する)考えは必ず別にパラグラフを立てて述べる

  ‐などというものでした。
  
  リトル先生が「日本語で考えている」という言い方でわたしに伝えたかったのは、手短にいえば<君が書く文章の流れには(日本語ではそれでいいのかもしれないが)論理の整合性・一貫性がなく、実に分かりにくい>ということだったのです。
  <英文を書き出す前にまず日本語で考えて文章を構成しているあいだは、君は論理的(でだれにも理解してもらえるよう)な英文は書けない>ということだったのです。

  次の授業で、パラグラフ作文法を意識して文章を書いて提出するよう求められました。
  わたしは架空の薬品の広告文を‐日本文を書くときには考慮しないではいられない“修辞”を排して‐ごく短い時間で書き上げました。
  <メイン・センテンス><パラグラフ><トピック・センテンス><サポート・センテンス>
  頭の中で考えていたのはそれだけでした。
  提出した文章をリトル先生は初めてほめてくれました。「これなら(頭が悪いアメリカ人にも)分かる!」とほほえんでくれました。

  目から鱗が落ちました。
  文章を書くということは実はこういうことだったのか‐と思いました。何よりもまず<自己満足に陥らず、読む人に理解してもらえるように書く>ということです。
  <パラグラフ作文法>がそのための道具だったのです。

  1987年の秋から数年間、ロサンジェルスの日系新聞「加州毎日」で働かせてもらいました。その間に日本語のコラムを200本以上は書きました。
  リトル先生に教えてもらった作文法が日本文を書く際にも役立ったことは言うまでもありません。
  <ステアク・エッセイ>も今回で71回目になっています。言いたいこと、主張の内容はそれぞれに異なってます(し、そのでき具合も一様ではないでしょう)が、論理の整合・一貫性が保たれている文章を書こうという意思はいつも持ちつづけてきました。

  さあて、あのとき<目から鱗が落ちた>効果はちゃんと出ているでしょうか?

 

          ー

  ところで‐。
  民主党の小沢代表は、自分は東北の生まれ・育ちで“口下手”だから‐とときどき口にします。
  東北人を悪く典型化しているという点でも受け入れてはならない低次元の弁解ですが、もっといけないのは、<自分が口下手なのは論理的にものを考え、語る訓練を一度も受けたことがないからではないか>と疑ったことがあの人はまったくなさそうだ‐ということではないでしょうか。
  小沢代表には(政権交代を論じる前に)一度、真剣に<パラグラフ作文法>を学んでもらいたいものだと思っています。
  小沢代表の目から鱗が落ちれば、国会での<党首討論>も退屈なものにならずにすむかもしれません。

加州毎日新聞「時事往来」--1987年8月28日-- 「貧困からの長い道のり」

      =加州毎日新聞(California Daily News)は1931年から1992年までロサンジェルスで発行された日系新聞です=

 

  一九八四年八月。あのときマニラはすでに雨季にはいっていた。少し激しい降りになると、市内のいたるところに深い水たまりができた。マビニ通のその交差点もいつものように水浸しだった。
  市民の足である乗り合いジープ−ジープニー−やタクシーが水たまりの中を馴れたハンドルさばきで走りかっていた。その客の方もまた軽い身のこなしで、車輪がはねる泥しぶきと車自体の両方を避け、するりと車に乗り込んでいっていた。そろそろ夕方のラッシュアワーに差しかかるころだった。
  そんな車の流れが途切れたとき、激しい雨に打たれながら、一人の少年が水たまりに足を踏み入れたのが通りの向こう側に見えた。少年は通りを横断するつもりらしかった。
  少年は、その体には大きすぎる白いTシャツを身にまとっていた。…いや、白と呼ぶにはあまりに汚れすぎている−灰色にくすんだ−シャツをそれが肩から脱げ落ちてしまいそうな格好でなんとか身につけていた。
  水の深みに膝の辺りまで脚を取られていたにしても、少年の動きはあまりにも鈍かった。一台のジープニーが近づき激しい水しぶきを上げて走り過ぎたとき、少年はものの見事に頭から泥水をかぶっていた。
  いまさら泥水をいとう理由は少年にはないようだった。シャツだけではなくその体ももともと清潔には見えていなかったのだ。
  実際に、少年は少しも気にしてはいなかった。ただ通りを横断する気をなくしただけだった。…空腹が少年の動きを緩慢にしているのは明らかだった。少年は、やはり鈍い動きで、元の歩道を振り返った。
  少年のTシャツの背に「アイ・ラブ・ニノイ」の文字が見えたのはそのときだった。

  ニノイと呼ばれていたフィリピンの野党指導者ベニグノ・アキノ氏がマニラ国際空港で暗殺されてからちょうど一年が過ぎたころだった。

  一九八四年。フィリピンはまだ<病める国>だった。インフレーションが激しい勢いで進行し、失業者の群れは大きくなる一方だった。夜の街には売春婦があふれ、強盗、夜盗が横行したいた。マニラは貧困という病にいまにも倒れきってしまいそうだった。マルコス政権の失政あるいは暴政に国民はとにかくうんざりしきっていた。

  いや、現実には、「なんとかなるだろう」と笑う友もいたし、日々の暮らしに疲れ、ただ「仕方がない」をくり返す友もいた。
  マルコス政権の横暴を憤り、イメルダ夫人をののしる声もあったし、だれが政権を握ってもおなじだという人もいた。
   アキノ氏暗殺真相究明委員会の不明朗な審議ぶりにこぶしを振り上げて不満を訴えるバーテンダーもしたし、フィリピン国民はこんな程度だと自嘲して見せるタクシー運転手もいた。

  あのとき、マニラは貧困という病が発する熱にうなされ始めていた。うなされながら人々は、それぞれ国と自分の明日を憂えていた。憂えながらそれぞれが、どこかに光明を見出したいと願っていた。
  「ニノイ・アキノが生きていたら…」という声を何度も聞いた。「この国もこんなに貧しくはならなかった」とある者が言い、「政権の腐敗はここまで進まなかった」とまたある者が言った。

  死んで英雄になる人物がある。支持する人々の期待が英雄像を創り上げ、生きていたならあり得たかもしれない活躍話が、その死を悼む気持ちが大きくなるに従ってふくらんでいく。
  少年のTシャツの背に見た「アイ・ラブ・ニノイ」の文字は、その死のちょうど一年後、早くも色あせかかっていたけれども、人々のニノイのかけた期待は枯れてはいなかった。
  「ニノイもやはり大金持ちの一人だが、彼には民主主義が、その必要が分かっていた」とあるインテリの友人が言った。「マルコスの悪政は数限りないが、最大のものはこの国に<中間層><中流層>を育成することを拒んできたことだ」と自らがその薄い中間層の一員であるもう一人の友人が分析した。「中間層の育たない国に民主主義はないし、ニノイはそのことを知っていた」と何度も二人はくり返した。

  一九八六年。再び訪れたマニラで友人たちは口々に「二月のリヴォルーションを日本で見てくれたか」と尋ねかけてきた。彼らの目には例外なく誇らしげな輝きがあった。「これからは少しずつ良くなるよ」と皆が語りかけてきた。「時間はうんとかかるだろうけど、だいじょうぶ」という彼らの声は静かな自信に満ちていた。

  八月二十二日付けの本紙「世界のまど」欄に、フィリピンが二十一日、国の最高額紙幣五百ペソ札を新たに発行し、そこにニノイ、ベニグノ・アキノ氏の肖像を使用した、というニュースがあった。
  五年後に再びマニラを訪れてみたいと思う。
  ニノイ夫人だったコラソン・アキノ現大統領が強権を発動することもなくその肖像がそのときまだ五百ペソ札に使われているようなら、五年後に再会する友人たちの表情は八六年秋よりも、たぶん、もっと明るくなっているはずだ。

  二十六日。フィリピンでは、ガソリンなどの値上げをめぐって、ジープニー運転手などが交通ゼネストに突入した…。

          *

   -- Traslated from the original Japanese language version by using "YANDEX TRANSLATE" --

     August, 1984. At that time, Manila was already in the rainy season.After a bit of intense descent, deep puddles were found all over the city.The intersection of Mabini Street was also flooded as usual.
     They were riding jeeps, jeepney, and taxis, which were the feet of the citizens, running through the puddle with their familiar steering wheel.The customer was also light-hearted, avoiding both the mud splashing on the wheels and the car itself, and quickly getting into the car.It was about time for rush hour in the evening.
When the flow of such a car was cut off, I could see a boy stepping into a puddle across the street while being struck by the heavy rain.The boy seemed to be going to cross the street.
The boy was wearing a white T-shirt that was too big for his body....No, I managed to wear a shirt that was too dirty to be called white −gray and dull - that was about to fall off my shoulder.
The boy's movements were too slow, even though his legs had been taken to the depths of the water to the knee.When one Jeepney approached and ran too far with a heavy splash, the boy was wearing muddy water from his head.
     It seemed that the boy had no reason to take care of the mud water now.Not only the shirt but also the body did not look clean originally.
     In fact, the boy did not care at all.I just lost the mood to cross the street.... It was clear that hunger was slowing the boy's movements.The boy, again in a dull movement, looked back at the original sidewalk.
     It was then that I saw the words "I Love Ninoy" on the back of the boy's T-shirt.

     It was just a year after Benigno Aquino, the Philippine opposition leader known as Ninoy, was assassinated at Manila International Airport.

     In 1984.,the Philippines was still a sick country.Inflation continued to grow, and the number of unemployed was growing.The night city was overflowing with prostitutes, robbers, night robbers wanted to rampage.Manila was about to fall into the disease of poverty even now.The people were disgusted by the mismanagement or tyranny of the Marcos government.

     No, in reality, there were friends who laughed, "It will be possible", and there were friends who were tired of daily life and just repeated "no way".
     Some were angry at the dominance of the Marcos government, and some were afraid of Mrs. Imelda, and others said that they were the same no matter who came to power.
     There were bartenders who raised their fists and complained about the unclear deliberations of the Aquino Assassination Truth Investigation Committee, and there were taxi drivers who showed self-deprecating that the Filipino people were such a degree.

     At that time, Manila was beginning to suffer from the heat of the disease of poverty.The people were worried about their country and their own tomorrow, while they were shouting "I am the one who is the one who is the one who is the one who is the one who is the one who is the one who is the one who isEach of them was worried, hoping to find a light somewhere.
     "If Ninoy Aquino was alive..." I heard the voice many times."This country has not become so poor," one said, "the corruption of the regime has not gone this far."

     There are people who die and become heroes.The expectations of those who support it create the image of a hero, and the story that might have been possible if it had been alive will swell as the feeling of mourning his death grows.
     The words "I Love Ninoy" on the back of the boy's T-shirt had faded as early as a year after his death, but Ninoy's expectations had not withered.
     "Ninoy is also one of the richest people, but he knew that democracy was necessary," said a friend of the Intelligence."Marcos has had countless ills, but the biggest one is that he has refused to cultivate the middle class in this country," another friend, who is himself a member of the thin middle class, analyzed."There is no democracy in a country where the middle class does not grow, and Ninoy knew that," the two repeated many times.
     1986. When I visited Manila again, my friends asked me, "Did you see the February Revolution in Japan?"In their eyes there was a proud glow without exception."From now on, we'll get better little by little," everyone said."It will take a lot of time, but it will take a lot of time," their voice was full of quiet confidence.

     In the "Window of the World" column of this newspaper, which dated 21st of August, there was news that the Philippines issued a new five hundred pesos bill of the country's highest denomination on twenty-one days, and used portraits of Ninoy and Benigno Aquino there.
     I would like to visit Manila again five years later.
If the current President Corazon Aquino, who was Mrs. Ninoy, did not invoke power, and his portrait was still used on five hundred pesos at the time, the faces of the friends who will be reunited five years later will probably be brighter than the eight・six autumn.

     Two days ago, the 26th of August, in the Philippines, Jeepney drivers and others rushed to a general traffic strike over the price increase in gasoline and other goods ....