再掲載: 番外 「翻訳で遊ぼう」 “はてな?”集 =5=

<041>

  「(略)これはお遊び番組ではなく、テレビの法廷ドラマでもない」(P.14)

  “(略)This is not a game show, and it is not ‘The
People’s Court.’(略)” (PAPERBACK 0.207)

   陪審員の候補者たちに、コリノ判事が選考過程などについて説明しています。<a game show>というのは、たしかに「お遊び番組」ではありますが「ゲーム・ショー」のまま方が分かりやすいかもしれませんね。
  「テレビの法定ドラマ」というのは間違いです。<The People’s Court>というは、現実の、多くは中流(あるいはそれ以下?)に属する人びとの、小さな額のカネをめぐるトラブルなどを、テレビ中継される法廷で、本物の裁判官が解決してやろうという番組です。繰り広げられる、庶民同士の醜い争いが“見どころ”のようです。インターネットが使えれば、こんなことは簡単に調べられるのですが、この訳本が出版されたころはまだ…。

     - - - - -

<042>

  オフィスに戻ると、陪審員の意見を示す最新の世論調査の結果が届いていた。マンハッタン地区で起きた最近の重罪事件で陪審員を務めた人々の、大まかな傾向を統計的に見るために、世論調査員は三百人を選んで電話をしたが、そのうちの半数以上が答えるのを拒否していた。(P.19)

  Back at the office the results of their latest juror-
attitude poll were in. Of three hundred people the
pollsters had called, chosen to reflect a rough
demographic profile of jurors in recent major felony
cases in Manhattan, more than half had refused to answer
the questions. (PB P.210)

  「大まかな傾向を統計的に見るために」は正確ではありません。

  試訳:マンハッタンで最近開かれた重罪事件の裁判で陪審員を務めた人びとの(性別、民族、年齢、学歴、職業など)人口統計学上の特徴を大まかに反映するように選んだ三百人に調査員たちが電話をかけていたが、そのうちの半数以上は回答を拒否していた。

     - - - - -

<043>

  あいまいな世論調査に対するライアンのいらだちにもかかわらず、その数字は少なからぬ不安を掻き立てた。(p.20)

  Despite Ryan’s annoyance with the poll’s vagueness,
the numbers sounded more than a little scary.

  ここもかなり“翻訳調”ですね。<annoyance>は<困惑>あたりでいいでしょう。

  試訳:調査のあいまいさにライアンは困惑していたが、数字には<ちょっと恐い>ではすまないものがあった。

     - - - - -

<044>

  シスリイは黙って聴いていた。今、口を開いた。「彼はミスタ・ライアンとミズ・ミラーに対し、視線を合わせる回数や注意集中度で、高得点を取っている。検察側に対しては、中以下の得点です。あなたに対する答えで、文脈上肯定的な意味合いの言葉は、文脈上否定的な言葉より二倍多く現れています」
  「わたしが恐竜のように恐ろしいからじゃないか」ライアンは納得していなかった。「(略)」(P.46)

  Sisley had been listening in silence. Now he said.
“He scores high on eye-contact and engagement with Mr.
Ryan and Ms. Miller. With the prosecution he scores
middle to low. I noted contextually positive words twice
as often as contextually negative ones in his answers
to you.”
  “I guess I’m a dinosaur.” Ryan said, unconvinced.
(PB P.223)

  辞書を引いていればこんなひどい誤訳はせずにすんだはずです。この訳本の中のトップクラスの間違いです。
  「恐竜」がポイントですから、「出た!」というところでしょうか。
  Sisleyというのは陪審員選考に関する専門家です。すでに終わった選考過程で、どの候補者が弁護側に同情的な考えを持っていそうかなどを、ライアンやミラーと話し合っています。シスリイは陪審員候補者の発言内容、しぐさなどを細かく分析して、自分の意見を述べています。
  長年法廷に立っていなかった、つまりは、陪審員選考専門家などがまだ重宝されていなかったころに法廷を離れていたライアンが<I guess I’m a dinosaur.>とつぶやきます。「英和中辞典」(旺文社)にはありませんが、「リーダーズ英和辞典」(研究社)にはちゃんとこう説明されています。「大きすぎて役に立たない〔時代遅れの〕人〔もの〕」。
  日本人は<シーラカンス生きた化石>をおなじような意味で使いますよね。
  「わたしが恐竜のように恐ろしいからじゃないか」では何のことだかまったく分かりませんよね。

  試訳:シスリーは無言で聞いていたが、ここで口を開いた。「あの人物は、ライアンさんとミラーさんへのアイ・コンタクトと同感という点で高い点を上げていました。検察官については、中ぐらいから低い点でしたね。あなたへの答えの中で、あの人物は、文脈上肯定的な言葉を否定的な言葉の二倍使っていましたよ」
  「どうやら僕は(恐竜のように、絶滅したも同然の)ずいぶん古い弁護士のようだな」。ライアンはそう言ったものの、シスリイの(最先端の科学を装った)説明に納得してはいなかった。

     - - - - -

  「合理的な疑い」日本語版文庫本の下巻P.46までやっとたどり着いたところですが、真打クラスの間違いも出てくれました。<遊び>に少し疲れてもきました。ここで一旦休憩することにします。後日また気が向いたら、残した下巻のペイジを見てみることにします。

  お疲れさま!!  

     * * * * *

再掲載: 番外 「翻訳で遊ぼう」 “はてな?”集 =4=

<031>

  「よくやった。次ぎはそれを立証する方法を見つければいいだけだ。誰か信用の置ける人間で、証言できる者を探そう」
  ミラーが顔をしかめた。「やってみたら、ライアン、わたしを危険にさらして」(P.320)
  
  “Great. Now all we need is to find a way to verify
it. Get somebody credible who can testify to it.”
  She made face. “Go ahead, Ryan, rain on my parade.”
  (PAPERBACK P.167)

  ネッドの抵当融資ビジネスと麻薬取引の大物オリヴェラとを結びつける何かをミラーは、コンピューターを駆使して長時間調べていました。二組の結びつきが見つかったところです。たしかに
<Great>といえる成果です。
  ところが、ライアンはたちまち<立証する方法>を見つける次の仕事に頭を奪われてしまいました。そこでミラーは<顔をしかめた>のですが、それは自分が<危険にさらされる>からだったでしょうか?危険にさらされるとなぜミラーは考えたのでしょう?ライアンにもっとほめてもらいたかったのでは?
  <rain on my parade>の<my parade>というのはミラーがいま挙げたばかりの成果のことを指しているべきです。
  <rain on>には「(俗)文句をたらす」という意味があるそうです(「リーダーズ英和辞典」研究社)。

  試訳:(略)「どうぞ、そうしたら、ライアン先生、発見を喜ぶ間をわたしに与えもしないで…」

     - - - - -

<032>

  (略)ライアンはオリヴェラの話をした。「すぐそれにかかってくれ」
  「了解。明日そっちへ盗聴器の掃除に誰かを行かせる。もっと前にやればよかった」
  「わかった。しかし一緒に掃除されちまったら困るな」
  「もっと怖い掃除の仕方だって考えられるさ。大物麻薬ディーラーを相手にしているからな」(P320)

  (略)Ryan told him about Olivera. “Get the wheels
turning on it right away.”
  “You got it. And I want to get somebody in there
tomorrow to sweep for bugs, Should have done it long
ago.”
  “Okay, but I don’t want to get carried away with
it.”
  “I can think of worse ways to get carried away.
We’re talking about serious drug dealers here.”(PB P.167)

  <030>のつづきの場面です。電話をかけてきたロレンスにライアンがミラーの発見を伝えたところです。
  ここの問題個所は<get carried away>です。二個所あります。この二つの<get carried away>は、言葉は同じなのに、異なった意味で使われています。翻訳に工夫がいるところですが、訳者はこれをただ<掃除される>と解釈しています。この訳者は辞書を引くのがずいぶん嫌いなようです。「英和中辞典」(旺文社)には<(比ゆ的)…の心を奪う、…を夢中にさせる>などという説明もちゃんとありますし、<(物・人命)を奪い去る>もあります。それを活かして訳せばよかったのですが…。
  また、<Should have done it long ago>についてはやはり<ずっと前にやっておけばよかった>と<should have 過去分詞>に忠実に訳してほしかったと思います。

  試訳:(二行略)「分かった。だけど、そんな(盗聴されているんじゃないかみたいな)ことに気を奪われてしまいたくはないな」
  「奪われるのが<気>ですんでいるうちはいいんだけどね。なんてたって、俺たちは正真正銘の麻薬ディーラーについて話しているんだからな」

     - - - - -

<033>

  ジェニファが片腕を動かして、打つ構えをした。過去の経験に身を委ねている者の、偽りの平静さが顔にみなぎっている。(p.328)

  Jennifer moved her arm again, readying a blow. Her
face wore the spurious tranquility of someone imagining
herself in a past experience. (PB P.171)

  ここでも翻訳調が冴えていますね。ネッドを殴ったときの様子をジェニファーがライアンたちの前で再現しようとしています。

  試訳:ジェニファーがまた片腕を動かした。一撃の動きに入ったのだった。ある過去の体験の中の自分を思い浮かべようとする人によく見られるように、うわべは平静な表情を浮かべていた。

     - - - - -

<034>

  少年はライアンの手に銃を向けた。「それは金なんだろうな」
  ライアンは小銭用に持っていた紙幣をつかみ。ゆっくりとポケットから引き出した。(P.332)

  The kid pointed his gun at Ryan’s hand. “Best that
be money.”
  Ryan clutched bills where he had been going for
change and slowly drew his hand from his pocket. (PB P.173)

  麻薬常習者と思われる少年にライアンとジェニファーが襲われます。ライアンは渡すためのカネを取り出そうと、ポケットに手を入れました。あれ?<小銭用に持っていた紙幣>?<小銭用に>持つのは、普通は<コイン>だと思いますが。
  次の行には<bills>と<change>があります。

  試訳:ばら銭を探っていた手でライアンは紙幣をつかみ、その手をゆっくりとポケットから引き出した。

     - - - - -

<035>

  理学療法(P.337)

  physical therapy 

  <034>で少年に襲われたあと、ギャング同士の抗争に巻き込まれたのか、ライアンとジェニファーは銃弾を受けてしまいました。医者の話をライアンは聞いています。辞書(「英和中辞典」旺文社)には「物理療法」とあります。<理学>と<物理>とのあいだにはかなり差異があるようですが、この療法とは、つまりは<肉体的な機能回復のための治療・訓練>です。

     - - - - -

<036>

  銃撃は麻薬ギャング間の縄張り争いである、と警察が発表した。死亡した、銃を所持していた少年は、他の暴力団のシマをたびたび侵している、あるギャングのナンバー2だった。相も変らぬギャングの抗争だというのが警察の見解である。(P.337)

  The police said the shooting was part of a turf war
between crack gangs. The boy with the gun, dead now,
had been a lieutenant of a gang prone to trespassing
on the territory of other gangs. Once too often,
according to the cops. (PB P.176)

  <lieutenant>は<lieutenant governor>の場合は<副知事>ですから「ナンバー2」かもしれませんが、ただの<lieutenant>では、米軍では中尉・少尉を指すように、そこまでえらくはありません。<あるギャングで中ぐらいのクラスにいた少年>でいいでしょう。
  「他の暴力団のシマをたびたび侵している」では<prone
to>の訳がずさんです。これは<…しがちな、…の傾向がある>という意味ですから、やはり<…侵しがちな>としたいですね。それが次の<Once too often>(「相も変らぬギャングの抗争だ」?)に関わってもきますから。
  そして、この<once too often>は、その(<他のギャングのシマを侵しがちな>ギャングの一員だった)少年が死んだのは<一度余計に侵したからだ>ということを示しています。<最後の一回が余計だった(ために殺されてしまった)>と、(警察ではなく)<警官たち>(the cops)が言っているのです。

  試訳:(略)

     - - - - -

<037>

  ジェニファ以外の誰かがネッドを殺したとして、その物理的障害を乗り越える問題に取りかかった。陪審を相手に、あの空白の一、二時間をゆさぶるのは楽しいが、現実にその時間がどれほどの機会を与えるだろうか?(P.351)

  He set himself the problem of getting past the
physical difficulty of anyone but Jennifer’s having
killed Ned. It was well and good to lean on that empty
hour or two with the jury, but what opportunity did it
really provide? (PB P.183)

  ここもずいぶん“翻訳調”ですね。
  ライアンたちは法廷での戦略を話し合っています。ネッドの死亡時間に関する検屍報告のギャップを突こうと考えます。
  ここでは「あの空白の一、二時間をゆさぶるのは楽しい」が怪しい個所ですね。
  まずは<well and good>です。「英和中辞典」(旺文社)には「よろしい、けっこう、しかたがない*決定・決意などを冷静に認める時の決まり文句」とあります。「楽しい」ではないということですね。
  また<lean on>には「頼る、あてにする、すがる」という説明があります。

  試訳:ジェニファー以外の誰かがネッドを殺したと主張するのは物理的に難しかったが、それを克服するという課題をライアンは自分に与えた。陪審を相手にする際には、あの空白の一、二時間に頼るしかなかった。ただ、そうしたところで現実にどれほど道が開けるかは疑問だった。

     - - - - -

<038>

  練習をしない年月が長く経つと、条件反射的な動作が体から消えてしまうこともあるが、それについては考えまいとした。(下 P.8)

  He tried to minimize the deconditioning power of the years without practice. (PB P.204)

  この「練習」は英語の<practice>の訳ですが、どんな辞書にも「(医師・弁護士などの)業務、営業」といった意味も載っているはずです。「練習」にしてしまったものだから、弁護人になぜそんなものが必要なのか分からない「条件反射的な動作」などという出所不明の訳も出てきました。
  “珍訳”の一つです。

  試訳:実務につかずに何年も経てば、どうしても元のようには働けないものだが、ライアンは極力、そんなふうには考えまいとした。

    - - - - -

 <039>

  「もうすぐです、裁判長!」(P.9)

  “Any minute, your honor.”(PB P.204)

  参考までに…。アメリカではどの州でも、一審の裁判は、1人の判事が担当するようです。ここでの<your honor>を「閣下」と訳すわけにはいきませんが、<裁判長>とすると、ほかに何人か担当裁判官がいるかのような印象を与えるかもしれませんね。
  「裁判官!」とするのがいいでしょうね。

     - - - - -

<040>

  「誰を相手にしていたか知っていたのだから、簡単に交代は許さないと文句を言うことはできます」
  「入れ替わり立ち替わりの方がこっちには有利だ。コリノもそれを知っている。これは認めざるを得ないだろう――法廷に戻って恩着せがましく認めよう」(P.13)

  “We can make some noise about knowing who our
opponent is and not having him come and go.”
  “Better for us if he does," Ryan said, “and
Corino knows it. This one’s inevitable --- let’s
get back in there and be gracious.”(PB P.206)

  ジェニファー裁判はベッカー検事ではなく自分が担当したいと、唐突にグリグリア検事局長がコリノ判事に申し入れました。 ライアンとミラーはそのことが弁護側にとってどういうことなのかを話し合っています。「恩着せがましく」は思い切った訳です。原文とはまったく逆になっています。

  試訳:「自分たちが相手にするのが誰であるかを知っていることの重要さ、その相手が顔を出したとたんに去ってしまうことの不都合さについて、いくらか不平を言うことができますよ」
  「もし替わってくれれば、こちらにはいいことだよ」。ライアンは言った。「コリノもそう思っているさ。この交代は避けられないんだよ。法廷に戻って、僕らがおおおようだってところを見せてやろうじゃないか」

     - - - - -

再掲載: 番外 「翻訳で遊ぼう」 “はてな?”集 =3=

<021>

  (略)ミラーは自分の机に目を伏せた。「血のつながった人間を使い捨てることは、方法の一つとしていささか挙げにくいのですが」
  「ネッドか」ライアンが補った。(P.205)

  She looked down at her desk. “The natural person for
us to trash I’m almost to mention.”
  “Ned.” Ryan supplied. (PAPERBACK P.106)

  ジェニファーをどう弁護するかをライアンとミラーが論じ合っています。捜査した警官とその捜査方法のずさんさを指摘するのはどうだろうか、あるいは、検屍局を槍玉にあげるか、などと。そんな中で、この殺人事件の被害者で、ライアンの息子であるネッドを悪者に描き上げて、ジェニファーへの同情または情状酌量を勝ち取るという方法もあるとミラーは示唆します。

  <The natural person for us to trash>の<trash>というのは<使い捨てる>ではありません。ここでは<悪く言う><弁護のためにだれかを悪者に仕立て上げる>という意味です。「英和中辞典」(旺文社)には「…をくず物扱いする、…を手当たり次第にこわす」などの意味が挙げられています。

  <natural person>は<血のつながった人間>ではなく<そういう狙いをつけると“自然に思いつく人間”>です。
  この間違いのせいで<方法の一つとしていささか挙げにくいのですが>というかなり無理な訳も生まれています。
  ここの誤訳はこの本の中のワースト5に入るでしょう。

  試訳:(略)「(警官や検屍局のほかに)わたしたちが悪者にしてもいい人物の名がもう少しで口に出そうになっているんですけど…」
  「ネッドだね」。ライアンは自らその名を挙げた。

     -----

<022>

  「頭が良さそうだ。ただ何か肩を怒らせているような感じがつきまとうけどな」(P.206)

  “She seems smart enough. Only I kept getting the
feeling she has some kind of chip on her shoulder.”(PB P.106)

  調査員ローレンスがミラー観をライアンに伝えています。
<chip on one’s shoulder>を辞書(「英和中辞典」旺文社)で引くと<with>が頭について<けんか腰で><忘れられない不満(不平)をもって>とあります。「肩を怒らせている」でもいいのでしょうが、それだと<威張っている>というような意味も混じってきますから…。

  試訳:「頭は十分に良さそうだな。ただ、いつもなんだかけんか腰(やたら他人につっかかる人間)だなって、おれはずっと感じていたけどね」

     -----

<023>

  「予想外にベッカーを怒らしちまったのかな」
  「あなたは、その気でなくてもごみを漁って火をつける類いの弁護人になるしか仕方ないかもしれませんよ」(P.218

  “You may have to become a trash-and-burn litigator
in spite of yourself.” (PB P.112)

  ライアンとミラーは電話で会話中です。「ごみを漁って火をつける類い<trash-and-burn>」が分かりません。ここの<trash>も<021>の場合と同様に<使い捨てる>ではなさそうです。ましてや<ごみを漁る>では…。上の<021>を見直してください。

  試訳:(略)「あなたは、本当はそう人じゃなくっても、手当たりしだいに相手を破壊し焼き尽くす(戦闘的な)法廷弁護人になるしかないかもしれませんね」

     -----

<024>

  「(略)コリノに関するわたしの事務所の資料コピーも持っています。マル秘扱い、読む前に焼却せよ、の類いです」
  「クレイグ?何か新事実は?」(上 P.231)

  “(略)I also have photocopy of my office’s file
on him. Eyes only, burn before reading.”
  “Craig? Anything new?”(PB P.119)

  弁護士ライアンとミラー、調査員クレイグ・ロレンスが裁判官コリノのことを話し合っています。「マル秘扱い、読む前に焼却せよ」は変ですね。
  この<Eyes only>の意味については、正直にいいますと、辞書を見るまでわたしはすっかり誤解していました。
  <for your eyes only> つまり<マル秘>という意味だったんですね(「リーダーズ英和辞典」研究社)。
  でも、<読む前に焼却せよ>というのはどういうことでしょう?<読む価値はない>ということでしょうか?つまり<マル秘扱いにはなっているが、ほとんど価値はない>類の資料だとミラーは言っているわけですかね?
  ライアンがロレンスに「何か新事実は?」と尋ねて、すぐに話の方向を変えていることからはそう察することができるようですが…。

  試訳:「(略)内容は<マル秘だが、読まずに焼いてもよし>といったところですね」

     -----

<025>

  「(略)ロバートスン・ニーランドという男は、結局よくわからん。パーク・アヴェニュウにシイグラム・ビルディングの美観を損なう建物を建てた。それが彼の頂点をなす仕事だ(略)」(P.234)

  “(略)He put up one of those buildings on Park
Avenue that insults the Seagram building. That was his
high point.(略)”(PB P.119)

  被疑者ジェニファーの父親ニーランドについてロレンスが報告しています。「頂点をなす仕事」が他のビルの「美観を損なう」ことだというのは?
  ここの<insult>は<シイグラムのビルを辱める>つまり<かたなしにする><みすぼらしく見せてしまう>というような意味でしょう。

  試訳:「(略)パーク・アヴェニューに建っているビルの一つが彼のものでね、それがあの《シイグラム》のビルをみすぼらしく見せてしまうように立派なんだ。(略)」

     -----

<026>

  そこでは、しなやかな体つきの女たちや筋肉りゅうりゅうの男たちが、ぴっちりした多彩なレオタード姿で、ロビイを絶えず出入りしていた。(P.236)

  A constant stream of sleek women and muscle-pumped
men in skin-tight multicolor costumes flowed through
the lobby. (PB P.121)

  「筋肉りゅうりゅうの男たち」が「レオタード姿で」?なんだか気持ちが悪くなるような光景ですね。この<レオタード>は英文では<costumes>です。<身なり>で十分でしょう。

     -----

<027>

  「(略)郊外に駐車場付きの小さな建物を建ててね、まるでファストフードのレストランだ。医者ボックスと呼ばれてましたよ。(略)」(P.237)

  “(略)They were out in the suburbs, small buildings
with a parking lot, like a fast-food restaurant. They
called them doc-in-a-box.(略)”(PB P.122)

  「医者ボックス」の英語が<Doc-In-A-Box>というふうになっていないのが意外です。これは、全米にたぶん何千軒とあるファストフード・レストラン<JACK-IN-THE-BOX>をもじっていることが明らかだからです。
  この<ジャック・イン・ザ・ボックス>は日本でもかなり知られているかもしれませんが、元になっている小説が出版された国の読者には簡単に分かることで翻訳本の読者には理解がしにくいところは、翻訳者としてはやはり、できるだけ、何らかの形で説明する義務があると思います。
  原文のスタイルを損なわずにどこまで説明するかという難しい問題は残りますが…。

  試訳:「(略) あの(ドライヴイン・レストラン・チェイン)<ジャック・イン・ザ・ボックス>をもじって<ドクター・イン・ア・ボックス>と彼らは呼んでいましたよ(略)」

     -----

<028>

  「カサンドラかと思っていた、あるいはカシオペアかと」
  「忘れたわ。あなたは文学専攻でしょ。(略)」(P.256)

  “I was expecting maybe Cassandra, or Cassiopeia.”
  “I forgot, you’re the lit major. (略)(PB P132)

  調査員クレイグ・ロレンスとキャシアがキャシアの名前の出どころについて話しています。ロレンスが実は、学生時代には文学を専攻していたという話がこの場面のずっと前にありました。キャシアという呼び名が、たとえば、キャサリンではなく<カサンドラカシオペア>ではないかと考えていたというロレンスの文学的センスに触れて、ミラーは以前にしていた話をここで思い出したわけです。
  時制を無視しすぎるというのもこの翻訳者の“特徴”になっていますね。

  「忘れていました。あなたは文学専攻だったんでしたね」(略)

     -----

<029>

  「ネッド殺しの犯人を釣針からはずす方法はないものかと、釣船で遠出して来られたんじゃないでしょうね」(P266)

  “You wouldn’t be on a fishing expedition, looking for ways to get Ned’s murderer off the hook?”(PB P.137)

  ここでの誤訳(珍訳)も“ワースト5”に入るかもしれません。
  殺された息子ネッドの少年時代からの友人ウィリイをライアンは訪ねています。ネッドの生前の抵当融資ビジネスのことを調べているのです。
  ここでは<a fishing expedition>がほとんど言葉どおりに訳されていますが、辞書(「リーダーズ英和辞典」研究社)を見ると<《情報・罪証などを得るための》法的尋問;《広く》探りを入れること>とあります。裁判前の調査に忙しいライアンが「釣船で遠出」などするわけはない、と訳者は考えなかったのですね。
  <off the hook>も辞典には「困難(義務)から解放されて」とあります(旺文社 コンサイス英和辞典」)。訳者はライアンを「釣り船」に乗せてしまったものだから「釣針からはずす」とつないだのでしょうが……。
  たとえば、<窮地から救ってやる>で十分でしょう。

  試訳:「ネッドを殺した誰かを窮地から救い出す道を見つけようというので探りを入れてらっしゃるんじゃないですよね?」

     -----

<030>

  「そうだ。そのとおり。陪審にはそう言えないが、きみには言える。彼女が有罪だとは思っていない」その断固たる口振りは、真実からの距離を告げていた。(P.267)

  “That’s right, I don’t. I can’t say that to a
jury, but I can say it to you. I don’t believe she’s
guilty.” It came out with a ring of conviction that
belied its distance from the truth. (PB P.137)

  ライアンはウィリイと話しています。<その断固たる口振りは、真実からの距離を告げていた>の個所は、懐かしいほど、翻訳調ですね。昔はこういう文体の翻訳があふれていて、わたしたちの頭を悩ませていたはずです。
  < a ring of conviction>が「断固たる口振り」というのはちょっと手抜きではないでしょうか。

  試訳:「(略)」。そう確信していると言葉は高らかに告げていたが、本心はそれとはほど遠いところにあった。

     - - - - -

再掲載: 番外 「翻訳で遊ぼう」 おまけ編 =2= 2008年12月14日

     - - 10 - -

  「(略)言葉と行動に限って下さい(略)」(P.145)

  検察官グリグリアはクレアへの尋問をつづけていますが、この証人は思い入れたっぷりの言葉や身振りを証言に混ぜてしまう傾向があります。あとで死体となって発見されたネッドと交わした会話についてクレアは「でも普通の会話の口調じゃなかった、わかる?やさしく囁くように話したの」と<裁判官コリノの警告にもかかわらず、…その時の口調になって>いました。「異議あり」とライアンが言います。裁判官コリノは異議を認めて検察官に伝えます。「言葉と行動に限って下さい」

  英語ではただ<Words and actions>です。

  アメリカの法廷では、証人の発言に対して検察官または弁護人が「それは<hearsay>だ」と異議を申し立てることが多いようです。
  この小説の中でも、たとえば、下巻の132ペイジにその場面があります。検察官が証人に<どんな言葉を彼は使いましたか>と尋ねます。ライアンは立ち上がり、「異議あり、裁判官。Hearsay」と言います。

  <Hearsay Rule>というのは<limiting testimony about
things said out of court by someone else>というものだと数行あとに説明されています。
  <法廷外で誰かが話した事柄についての証言を制限する規則>です。
  「リーダーズ英和辞典」(研究社)には<hearsay evidence>「伝聞証拠」という言葉も載っています。

  さて、上のライアンの異議を見てください。
  ただ<Hearsay>と言っているだけです。法廷では当然、それですべてが通じるわけですね。<いまの証言は〔伝聞に関する規則〕に反している>(第三者による法廷外での発言について尋ねている)という異議なのです。

  では<Words and actions>は?
  ここでも「いまの証言は〔発言と動作に関する規則〕に反している」という意味だと考えるのが妥当でしょう。「言葉と行動に限って下さい」と裁判官が言ったのではありません。

  この〔発言と動作に関する規則〕というのは、文脈から判断すれば<証人は動作で示しながら言葉を発してはならない><証人は言葉を発しながら動作を示してはならない>というような内容だと思われます。


     - - 11 - -

  敵意を持つ証人(P.156)

  英語は<a hostile witness>です。
  「リーダーズ英和辞典」(研究社)に「(法)〔自分を呼んだ側に不利な証言をする〕敵意を持つ証人」と説明されています。
  つまり、たとえば、被告に有利な証言が期待できるとして弁護側が呼んだ証人が(事前の相互了解に反して、あるいは、検察側の誘導に乗って)検察側に有利な証言を始めた場合、弁護人はこの証人を<敵対的証人>として扱う許可を裁判官からもらい、その証言の不備を突いたり、証人の信用性に疑問を投げかける類の尋問をすることができるわけです。
  同様の状況になれば、検察側も検察側証人を<敵対的証人>として扱うことが許されます。本来は、検察官にしろ弁護人にしろ、自分が呼んだ証人をそういうふうに扱ってはならないことになっているようです。

  小説のこの場面でなぜ<敵対的証人>について検察官グリグリアと弁護人ミラーが意見を戦わせることになっているかというと、検察側証人として出廷しているティナ・クレアという女性に彼女自身のボーイフレンドのことなどを話させながら、弁護人ミラーが被告人ジェニファーに有利な証言を引き出そうとしている、とグリグリアが疑ったからのようです。
  弁護人ミラーは本来は、検察側証人クレアの証言内容の不備を突くことはできても、被告人に有利な証言を導き出すことは許されていない、ということのようです。導き出すにはクレアを弁側証人として証言させなければならない、とグリグリアは主張しています。

  訳文ではグリグリアがこう訴えます。「裁判長、弁護側は反対尋問で、たとえこの審理と関わりがあるにしても、それは弁護側の方の主張の一部であるべきものを、今持ち出そうとしています。もっとも弁護側がミズ・クレアを自分側の証人に望む場合ですが」

  分かりますか?上の訳が?
  わたしの訳はたとえばこうなります。「裁判官、弁護側は、弁護側の直接尋問で問題にするべき事柄を反対尋問に持ち込もうとしています。たとえ、この法廷でその内容が語られることが許されるとしても、弁護側がミズ・クレアを自分側の証人とするのでなければ、そういった尋問は許されません」

  英文は
  ”Your honor, the defense is trying to bring in on
cross-examination material which, if it belongs in this
courtroom at all, is part of the defense’s direct case.
Unless the defense wants to make Ms. Claire its own witness.”
  です。


     - - 12 - -

  「てっとりばやく忘れられるからね」(P.208)

  ある夜、ミラーとライアンは食事に出かけます、ライアンが選んだレストランは「騒がしい若い客とそれに輪をかけてやかましい音楽で賑わうメキシコ風料理店」でした。「あなたがこんな店をお好きだとは知らなかったわ」と言ったミラーにライアンが応えます。
  <Instant oblivion
  訳文は「てっとりばやく忘れられるからね」です。ライアンは何を忘れたかったのでしょうか?

  <oblivion>には<忘れること>から<世に忘れられている状態>までの意味があります(「リーダーズ英和辞典」研究社)。
  ミラーが最初に提案したのはライアンの行きつけの店でした。その案を拒否して、彼が(彼には似合わない)ここを選んだのはなぜでしょうか?ここの文脈からは、顔見知りなどに出会いたくなかったからとしか考えられません。すると?

  <Instant oblivion>は<簡単に一人っきりになれる場所だからね、ここは>あるいは<入ってしまうと、誰にも煩わされることがないからね、この店では>というような意味でしょう。


     - - 13 - -

  「アイルランドの勇気が必要なの」(P.209)

  上のレストランでの食事のあと、ライアンとミラーは彼のアパートで法廷戦術を練ることにします。建物の前で待ち構えていた記者たちに「ノー・コメント」と言ってアパートに入ったあと、何が飲みたいかと尋ねられた(はずの)ミラーが訳文では 「Irish courage」と答えます。「あなたのことを話したいから」だということです。
  ですが…

  They no-commented the reporters. Miller surprised him
when they got upstairs by asking for a drink. “Irish
courage,’” she said. “I want to talk about you.”

  英文を読むと
  <by asking for a drink>からは<a drink>が<Irish
courage>と呼ばれているように読めますね。

  アイリッシュ・コーフィーというとウィスキー入りです。
  <Irish courage>というのは<courage>が大文字ではじまっていませんから固有名詞(ブランド・ネイム)ではないことが分かりますが、やはり、(強い)アルコールのことを指しているのではないでしょうか?
  「アイルランドの勇気が必要なの」ではなく「アイルランドの(強い)カクテルを飲んで勇気をつけようというわけです」という訳ではどうでしょう?

  
     - - 14 - -

  <a virtual certainly>(P.368)

  ペイパーバック「RESONABLE DOUBT」の原文に誤植はないのか?
  あります。たとえば、368ペイジの<a virtual certainly>の<certainly>は冠詞<a>がついていますから副詞<certainly>ではなくて、名詞<certainty>でなくてはなりません。
  その数行前に出てくる<a moral certainty>と対応していることからも分かります。

  その<a moral certainty>というのは「まず間違いないと思われること、強い確信、蓋然的確実性」のことだそうです(「リーダーズ英和辞典」研究社)。
  すると、<a virtual certainty>というのは<事実上確かだと思われること>というような意味になりますね。
  この小説のこの部分では、法廷で<情況証拠>をどう解釈すべきかが論じられています。訳がちょっと厄介なところです。…触れないでおきます。


     - - 15 - -

  「代替品みたいな顔をしないで、ライアン」(P.350)

  英語は<Don’t look a loaner in the mouth, Ryan.>です。
  ライアンはミラーのアパートに来ています。ベッドに入る時間になりました。絹製だと思えるネイヴィーブルーのパジャマをミラーがクローゼットから出してきました。ライアンの「兄弟のうちの誰かの?」という問いへのミラーの答えが<Don’t look a loaner in
the mouth, Ryan.>です。

  ここの<in the mouth>については、正直に言いますと、

 “Sure. Verbal. We asked for papers. He kept saying,
they’re on the way.” Karl’s mouth twisted as if he
was going to spit. “Sure, the papers are on the way.
Like, your check is in the mail, and I won’t come in
your mouth.”  <019>

の<come in your mouth>の場合とおなじように、意味がすっきりとは分かりません。

  <loaner>というのは<カネの貸し付け人>。一方<I won’t
come in your mouth.>の<I>は<書類(小切手)を届けることになっている人物>を指していると思われます。
  その共通点から推察すると
  <in you mouth><in the mouth>の<mouth>は<〜に都合がいいように>というような意味あいを持っているようです。

  すると、全体としては「(カネを貸してくれる人があなたのところにそのカネを持ってきてくれるというような話=あなた用のパジャマが用意してあるというような)やたらと都合がいい話はないんですよ、ライアン先生」というような訳がいいでしょうかね。


     - - 16 - -

  「(略)おれがプロだと信用させるのにえらく骨を折ったが(略)」(P.371)

  殺された息子ネッドの生前のカネの動きを調べている弁護士ライアンたちは、雇っている調査員ロレンスの話を聞いています。彼は、大掛かりな麻薬事件を捜査するために新たに構成された組織に探りを入れた(I put out a feeler a while ago)ことを伝えたあと

  Cost me every ounce of professional credit I had left, …

とつけ足します。それが上の訳になっています。(PB P.394)

  訳者は<I put out a feeler>を「情報屋を入れた」としていますが、この捜査機関にそんな人物を<入れる>ことができるかどうか?ここは、機関内のさまざまな捜査官に尋ねまくった、という意味だと思われます。
  そうしているあいだに、昔からの友人、知人だったその捜査官たちに、探りの動機を疑われたり、<今回限りだぞ>と言われたりして、プロの探偵としての仕事が今後やりにくくなったようだ、というのが
  <Cost me every ounce of professional credit I had left>
でいわれていることです。

   <(探りを入れているあいだに)俺に残っていたプロとしての信用を全部使い果たさなければならなかったけど…>というような訳がいいでしょう。

  文庫本の訳には「おれがプロだと信用させるのに」とありますが、ロレンスは<誰>に<何>のプロだと信用させたかったというのでしょう。
  ロレンスは、ライアンが昔連邦司法省の検事だったころにはFBI捜査官でした。二人は一緒に仕事をしていたのです(上 P.137)。その当時からのコネをロレンスは使ったのです。相手はみんなロレンスがその道のプロだと知っていたはずです。

     * * * * *

  「翻訳で遊ぼう」は今度こそ<ここで終了>です。
  おかしな訳、明らかな誤訳はもうない、というわけではありませんが、ここまでで十分でしょう。

  英語が好きな人にはいくらか楽しんでいただけたのではないかと感じています。

  

再掲載: 番外 翻訳で遊ぼう “はてな?”集  =1=  2008年12月8日

  "REASONABLE DOUBT" (Ivy Book)とその日本語版文庫本(出版社と翻訳者の名は伏せておきます)を読んで「はてな?」と感じた個所を順に拾ってみました。

     --------------

<001>

  リムジンから黒い人影が降り立つのに目もくれず…(文庫本上 P.11)

  He had barely noticed the dark figure emerging from a
limousine… (Paperback P.3)

  まず、日本語訳は過去完了を無視しています。次に、<barely>に気を配っていません。原文は<目もくれず>から感じられるほど意図的ではありません。

  試訳:…黒い人影が降り立つのに彼はほとんど気づいていなかった。

     -----

<002>

  とっさの行動を起こす前に…(P.11)

  Before he could react…. (PB P.3)

  <とっさ>に当たる単語がありません。

  試訳:彼が反応する前に…

     -----

<003>

  疑わしい点をわたしに有利に解釈して下さるだけでいいの。(P.12)

  Just give me the benefit of the doubt. (PB P.3)

  <the benefit of the doubt>はほぼ辞書どおりの訳ですが、なんだかまだるっこしい言い方になっていませんか?

  試訳:(わたしにかけられている)嫌疑を「本当にそうだろうか」という視点から見てみてください。

     -----

<004>

  マスコミはこの事件を砂漠の大雨のように狂喜して吸い込んだ。(P.13)

  The story had been soaked up by the press like a
rainstorm in a desert. (PB P.4)

  ここでも過去完了の無視があります。<狂喜して>は―その程度の説明語をつけ加えるのは許されるのかもしれないとも思いますが―原文にはありませんし、<砂漠に大雨>が降っても、砂漠もマスコミも<狂喜>はしないでしょう。

  試訳:報道機関はこの事件を、降る大雨を吸い尽くす砂漠のように貪ってきていた。

     -----

<005>

  …交通の激しい通りから離れた隅のテーブルへ案内した。(P.15)

  The restaurant was crowded but the maitre d’ (略)led
them to a table in a corner, out of the bustle of traffic.

  問題は<traffic>です。<交通の激しい通り>の<通り>が原文にはありません。この<the bustle of traffic>はレストランの中の<人びとのざわざわとした動き>だと考えるのが自然だと思います。

  試訳:レストランは混んでいたが、メトゥラ・ディー(給仕長)は二人を、店内の人びとのせわしい動きから離れた角のテーブルに案内した。

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<006>

  それはいつも変りなく、執事が犯人だったなどという世迷い言は通用しない。(P.16)

  It was always the same, and it wasn’t The Butler Did It. (PB P.5)

  <The Butler Did It>は、それぞれの単語の初めが大文字になっていますから、本か映画の(よく知られた)タイトルだと思われます(翻訳されたときにはインターネットはまだほとんど普及していなかったでしょうから、わたしも使わないでおきます)。せめて「 」に入れるぐらいの工夫は必要だったでしょう。
  <世迷い言>であることを示すための大文字だとは思えません。映画か何かの中で、大金持ち(被告ジェニファーも大金持ちの娘)が殺人の疑いをかけられたときに<やったのは執事だ>と言い逃れする場面が頭に浮かびます。

  試訳:いつもそうだった。「殺したのは執事なんだ」とはいかないのだった。

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<008>

  地方検事代理(P.26)

  Acting D.A. (PB P.8)

  これは誤訳ではありません。ただ、この<acting>は<代行>の方がいいと思います。
  <D.A.>は<District Attorney>で、通常<地方検事>と訳されますが、日本で<検事>と聞いて思い描くものとは異なります。この小説の舞台はニューヨーク州ニューヨーク市(マンハッタン地区)です。州の<地方検事>は普通、カウンティー(郡)ごとに一人置かれています。<地方検事>はその郡全体を統括する検事局の<長>です。つまり、<地方検事>は郡の<検事局長>とでも呼ぶのがいいと思われます。ちなみに、この<検事局長>は住民による選挙で選ばれます。

  試訳:検事局長代行

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<009>

  地方検事補(P.29)

  A.D.A (Assistant District Attorney) (PB P.9)

  この<地方検事補>が日本でいう<検事>に当たります。ニューヨーク市を管轄する検事局なら<地方検事補>の数は数百人規模でしょう。

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<010>

  銀縁に固定された思い出の数々を手で探り、一枚を取り出した。(P.40)

  He reached in among the memories fixed in silver and
pulled one out. (PB P.19)

  死んだ息子ネッドの家にライアンはいます。「食堂の食器棚のいちばん下の浅くて広い引き出し」の中に<ありとあらゆるサイズの(ごたまぜに詰め込んであった)写真>を見つけました。見ないでおこうと思いましたが、誘惑に負けて、写真に手を伸ばしました。
  さて、<広い>とはいえ<浅い>引き出しの中に、「銀縁」かどうかはともかく、フレイム(縁)に入った写真は何枚あったのでしょうか?フレイムに入った写真が<浅い>引き出しの中で<ごたまぜ>になるでしょうか?
  ここの<silver>は写真で使われる硝酸銀を指していると思います。小説の最後近くで、ライアンにはかつて写真撮影に凝った時期があったことが明らかになります。

  試訳:硝酸銀(印画紙)に固定された思い出の数々…

  −−まだつづきます。